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十字に裂かれたサドル r+1,899-2,029

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交番の前で信号を待つ時の心細さを思い出すと、どうにも胸の内がざらついて落ち着かない。

私はその夜の話を友人から聞いたのだが、彼が語った情景はあまりに生々しく、まるで自分自身が体験したような錯覚に陥る。だからここからは、彼の口ぶりをなぞる形で、あえて一人称で記すことにする。

――あの晩、川沿いを走っていた自転車のタイヤが、濡れた舗装をひどく重たく滑るように回っていた。空は真っ黒で、時折遠くで電車が川を渡る鉄橋を震わせる音が響き、どこか機械的な心臓の鼓動のように夜を支配していた。私はただ、橋を渡って家に帰ることしか頭になかった。

交番の前に着いたとき、信号は赤だった。雨に濡れたアスファルトの照り返しの中で、私はハンドルに体を預けるようにして呼吸を整えていた。その瞬間だった。耳を裂くような爆音が鳴り、地面が生き物のように震え、視界が白い閃光に焼かれた。気づいた時には、ダンプカーの巨体がこちらに迫ってきていた。

車輪の回転音、油の臭い、鉄の塊が迫る音が現実味を帯びて全身を縛り付ける。避けられない。逃げ場はない。ただ飲み込まれるしかないと直感した。目を閉じ、歯を食いしばり、肉体が粉々に砕ける瞬間を待った。

だが、次に訪れたのは無音だった。恐る恐る目を開けると、信号は青に変わり、ただ雨粒が地面を叩く規則正しい音があたりを満たしていた。橋を渡る車もなく、交番の窓は黒々と沈んでいる。すべてが元通りに見えた。

私は青信号を何度も見送りながら立ち尽くした。心拍が落ち着かず、頭の奥で鈍い警鐘が鳴り続けていた。やがて深呼吸を繰り返し、自転車を押して橋を渡りきった時、不意に背筋が凍りついた。サドルに違和感がある。

覗き込むと、革の座面が十字に切り裂かれていた。糸で縫い割ったような整った切り口で、素人が悪戯でやったものでは到底ない。あまりに不自然で、あまりに唐突だった。指先でなぞると、裂け目の中は濡れた肉のように生温かい錯覚さえした。息が詰まり、思わず自転車を投げ捨てて交番に駆け込んだ。

しかし、そこには誰一人いなかった。静まり返った室内の暗がりに立ち尽くすと、背後から雨の音だけが追いかけてきた。もう一度外に出ると、先ほどの自転車は跡形もなく消えていた。サドルどころか、フレームごと影も形もなくなっていたのだ。

私は震える手で友人に電話をかけ、どうにか声を絞り出した。助けを求めるように。だが、友人の声もどこか遠く、受話器の奥から響く川音に混じって、別の誰かの低い息遣いが忍び込んでいたように思う。

その夜以来、私は外に出ることができなくなった。部屋にいても、窓の外で時折ダンプカーのエンジン音が鳴るように感じる。真夜中になると、椅子に座っている背後で革の裂け目が引き裂かれるような音がし、振り向くと何もない。ただ雨に似た滴の気配だけが、床にじんわり染みを広げている。

後日、あの橋のことを調べてみた。川崎側の交番、そして橋脚の一本目。その周辺で何度も奇妙な出来事や自殺が起きているという。とりわけ、欄干での首吊りは不可解だ。高すぎて縄をかけるのも困難なはずなのに、なぜか続く。さらに橋脚付近に立つと体調を崩す人が後を絶たないという。

人は「磁場が歪んでいる」だの「風の流れが特殊だ」などと説明しようとする。しかし私には、もっと別の理由があるように思えてならない。あの夜、確かに存在したダンプカーの幻影と、十字に裂かれたサドル。そして消えた自転車。それらは、ただの偶然や環境要因で説明できるはずがない。

私がいま恐れているのは、あれが「一度きりの出来事」ではなかったということだ。窓の外の川音が大きくなる夜、私は再び青信号の前に立たされるのではないか。あの爆音と白い閃光に焼かれる瞬間が、いつか再現されるのではないか。それが、ただの妄想だと言い切れなくなっている。

誰もいない交番の前に、自分と同じように震えて立ち尽くす人影がまた現れるのだろう。その時、裂かれるのはサドルではなく、私自身かもしれない。

(了)

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