俺はもともとオカルトが好きで、洒落怖も相当読み込んでいた。
それに職業柄、いわゆる「説明のつかないこと」に遭遇する機会も多い。だから八百万の神という考え方も、信仰というより業界の常識として受け入れていた。
火と水を合わせてカミ。自然の力を恐れ、名付け、距離を取る。その感覚は、表に出ない仕事をしている人間ほど身に染みている。触れていいものと、触れてはいけないものの境目を、理屈ではなく空気で判断する世界だ。
この話も、そんな「触れてはいけない境目」を越えたところから始まる。
数年前、事務所の人間が数人集まって雑談をしていたとき、先輩の一人がふと思い出したように、事務所から少し離れた場所にある社の話をした。
今は石と雑草に埋もれて、小さな祠がぽつんと残るだけ。昔は鳥居もあり、きちんとした稲荷だったらしい。再開発やら何やらで周囲は更地になり、鳥居も取り払われ、名残の石だけが残った。それでも、力の強い神だと業界では知られていて、今でもたまに供え物をする人がいるという。
その話をした先輩は、霊感があると噂されている人だった。本人は否定していたが、場の空気が変わる瞬間を知っているタイプの人間だ。
「しばらく留守にするからさ」
そう言って、先輩は俺を見た。
「その間、社の世話、頼めるか」
俺はその頃、業界に入ったばかりで右も左も分からなかった。断れる立場でもない。内心では面倒だと思いながらも、頷くしかなかった。
やることは単純だった。
毎日決まった時間に行って、水を替えて、手を合わせる。それだけ。
最初のうちは、正直何も感じなかった。
虫の音と、湿った土の匂い。夜になると妙に静かで、逆に昼間は騒がしい。ただそれだけの場所だった。
一ヶ月ほど経った頃だ。
習慣というのは怖いもので、毎日通っているうちに、俺は慣れきってしまった。恐れも、敬意も、薄れていた。
そして、調子に乗った。
俺たちの間には、ある手順を踏めば神と交信できる、という半ば冗談のような話がある。力を貸してもらえるとか、運を曲げられるとか。俺は当時、それを信じていなかった。だからこそ、試してみようと思った。
翌日、友人と約束があった。
天気予報は雨。外の予定だった。
「神様なら、天気くらい変えられるだろ」
変わらなければ、それまで。
そんな軽い気持ちだった。
俺は簡単な準備をして、即席の祝詞のようなものを作り、夜中に一人で祠へ向かった。洒落怖で読んだようなことが頭をよぎり、内心ではかなりビビっていた。
祠の前で、早口で言葉を並べる。
手順は、全部踏んだ。
最後に、つい余計な一言が口をついた。
「神様なら、これくらいできますよね」
言った瞬間、空気が重くなった気がした。
俺はそれ以上考えないようにして、その場を離れた。
その夜は、何も起きなかった。
翌朝、目を覚ますと、信じられないくらいの晴天だった。
胸がざわついた。
成功したのかもしれない、という考えが頭を離れなかった。
待ち合わせ場所は、俺が通っていた大学だった。
早く着きすぎて、キャンパスを背に、ぼんやりと待っていた。
一時間。
二時間。
友人は来ない。電話も繋がらない。
苛立ちと不安で、何度も時計と携帯を確認しているうちに、ふと嫌な感覚が背中を這い上がった。
おかしい。
そう思って、顔を上げ、周囲を見回した。
大学が、なかった。
そこは広い更地だった。遠くに立ち入り禁止の看板が倒れ、外された鎖が地面に散らばっている。背後にあったはずの建物は、古く崩れかけたお堂に変わっていた。
俺は直感で理解した。
ここは、あの稲荷の敷地だ。
怖くなって走り出した。
逃げているはずなのに、背後に気配が張り付いて離れない。振り返らなくても分かる。お堂が、ずっと近くにある。
必死で走った先に、一人の女性が立っていた。
顔は思い出せない。ただ、人ではないと分かる存在感だった。
俺は叫んだ。
「助けてください」
女性は俺を見て、静かに言った。
「早く出なさい」
その瞬間、俺は目を覚ました。
外は雨だった。
時計を見ると、まだ夜中だった。
夢だと分かっても、安心できなかった。
胸の奥に、まだ重いものが残っていた。
俺はその日の約束を断り、雨の中、社へ向かった。
必死に謝った。言葉にならない言葉で、頭を下げ続けた。
それ以来、目立った異変は起きていない。
先輩が戻ってきたあとも、祠の世話は俺が続けている。
ただ一つだけ、今でも分からないことがある。
あの夢の中で、女性が言った「出なさい」という言葉。
あれは、警告だったのか、それとも。
今でも、社の敷地に立つと、どこまでが中で、どこからが外なのか、分からなくなることがある。
[出典:458 :本当にあった怖い名無し:2019/06/02(日) 00:46:52.84 ID:1D5lr1800.net]