中国・杭州にある山間の古刹で起きたという話を、ある女性から聞いた。
初めての海外旅行で参加したツアーの途中、彼女はその寺院を訪れたという。
かすんだ霧が山裾にかかり、音もなく時が流れていた。石段を登りきった先に、いくつかのお堂が並んでおり、そのひとつに案内された。観光客向けに公開された内部は、暗くひんやりとした空気に包まれ、古びた線香のにおいが鼻をついた。正面に安置された仏像は巨大で、黒光りするような金色が、外から射し込む淡い日差しに照らされ、まるで呼吸をしているかのように見えた。
他の参加者たちは軽口を叩きながら写真を撮っていたが、彼女だけがその仏像の異変に気づいた。頭のあたりから、何かがぬるりと這い出していたのだ。手足が異様に長く、頭巾をかぶった痩せぎすの僧のような姿。それがまるで水中を進むような、揺ら揺らとした動きで彼女の方へ近づいてくる。
「你好……你从哪儿来……名字是……」
ぼそぼそとした声が、直接頭の奥に染みこんでくるようだった。大学時代に少しかじった中国語が、なぜかすっと意味を成した。
“名前は?”
“どこから来た?”
“ここで何をしてる?”
不可解だったのは、その声に恐怖はあったが、逃げようとは思わなかったということだ。むしろ直感的に、これは「見えてはいけないもの」だと理解していた。
「見えない振りをすれば、帰れる」
何の根拠もないその思考が、骨の髄にまでしみ込むほど強く彼女を支配していた。だから隣にいたツアー仲間の袖をつかみ、視線をそらしながら、指差すような動作でこう言った。
「きれいね、この山の景色……」
実際には、仏像の前に立つその異形を指していたにも関わらず。
僧はなおも語りかけてくるが、彼女は一貫して無視し続けた。気配が耳元をなぞるように迫る。息のような冷気が頬をかすめた時、不意にその声がこう言った。
「見えていれば、帰らせなかった」
それだけを残し、ゆらゆらと揺れながら、僧の姿は仏像の中へと吸い込まれていった。背後では、澄んだ鐘の音が鳴り響いていた。
直後、静かに読経の声が聞こえてきた。寺の修行僧たちがぞろぞろと堂内へ入り、整然と仏像に向かって座り、礼拝を始めた。ガイドの女性が、柔らかい笑顔でこう言った。
「そろそろ読経の時間です。お邪魔にならぬよう、移動しましょう」
彼女は黙って頷いた。あの僧たちは、仏ではない何かを、拝んでいた。

帰国の数日前、旅程の途中でもう少しで死ぬかもしれない事故があったという。運よく回避でき、無事に帰国したが、その三日後、テレビのニュースが中国各地で激しい抗日デモの映像を流していた。
「もしあのとき、“あれは何?”と誰かに訊いていたら……。私は、今ここにはいない気がする」
彼女はそう言って、ゆっくりとお茶に口をつけた。ほんの少し手が震えていた。
「あの僧……全部の言葉は聞き取れなかったけど、なぜか“聞こえないふり、見えないふり”って、何かに言われた気がするんです。誰かに教えられたように。まるで……あそこにいた“何か”以外にも、それを警告する者が近くにいたような」
語尾が消え入る頃には、彼女の目は窓の外に向いていた。外は夜で、月が静かに浮かんでいた。
あの仏像の中に、まだ“それ”がいるのかどうか、確かめる術はない。ただひとつだけ言えるのは――彼女が見たものは、仏ではなかった。そして、仏に祈るべき場所で祈っていた僧侶たちは、彼女とは違う“もの”を見ていた。
[出典:772 :本当にあった怖い名無し:2024/09/27(金) 00:19:29.49 ID:Y5VH4fRG0.net]