前に住んでいたアパートの話を、今度こそ書き残しておく。
派遣の仕事で比較的条件のいい現場に入れたが、実家からは遠く、毎朝六時起きで電車に揺られる生活が続いていた。残業も多く、体力的に長くはもたないと分かっていたため、実家と会社の中間あたりにある町で一人暮らしを始めることにした。家賃の安さだけで選んだ古いアパートが、結果的にすべての起点になった。
建物自体はよくある二階建てで、壁も薄く、設備も最低限だった。契約の際に対応してくれた管理人は、穏やかな口調の中年男性だったが、鍵を渡すときにだけ声を落として言った。「隣の人には、あまり関わらないほうがいい」。理由は聞かなかったが、聞いても意味がない気がした。
引っ越し初日の夜、廊下に響く叫び声で目を覚ました。「いてぇぇ!」という、怒鳴るとも泣くともつかない声だった。様子を見に出ると、隣室の男が廊下に座り込み、手首を押さえていた。血が床に点々と落ちていたが、本人は笑って「大丈夫ですから」と言うだけだった。救急車を呼ぼうとすると、強く拒まれた。
それからも、似たようなことが何度もあった。夜中に物音がして、裏手に回るとトタン屋根の上でうずくまっていたこともある。天井にロープをかけようとして壊し、管理人と揉めていたこともあった。警察や救急が来たことも一度や二度ではない。
正直に言えば、迷惑だった。ただ、もし本当に死なれたら、隣人として気分のいいものではない。その中途半端な距離感のまま、日常が続いていた。
ある平日の夜、仕事帰りに廊下で鉢合わせた。会釈だけして通り過ぎるつもりだったのに、なぜか口が勝手に動いた。
「どうして、そんなに死にたいんですか」
今でも、なぜあんな言葉が出たのか分からない。無神経だった自覚はある。だがその瞬間、彼は床に崩れ落ちるように泣き出した。通路の真ん中で嗚咽を漏らされ、放っておくこともできず、部屋に招き入れた。
彼は途切れ途切れに、自分の身の上を語った。幼い頃に両親が離婚し、母に引き取られたこと。母の再婚相手から暴力を受けてきたこと。今も金を取られていること。時折現れる怖い顔の男は、その関係者だという話。現実味に欠ける部分も多く、どこまで本当か判断できなかった。
だから、軽く言ってしまった。
「だったら、逃げればいいじゃないですか。遠くに行けば」
その言葉を聞いた途端、彼は首を振り、また泣き出した。自分が逃げたら、母親に何をされるか分からないのだと言う。どう返せばいいのか分からず、焦りから、さらに余計なことを重ねた。
「俺だって、死にたくなることはありますよ。でも、なんとかやってます」
その瞬間だった。彼の泣き顔が、急に静まり返った。まるで照明が切り替わったみたいに、表情が明るくなった。そして、じっとこちらを見つめてきた。その視線が、妙に重かった。
翌日から、空気が変わった。廊下に出るたび、必ず隣室のドアが開く。にやにや笑いながら話しかけてくる。「昨日の話、嬉しかったです」「一緒ですね」と、意味の分からないことを言う。見張られているような感覚が、日に日に強くなっていった。
週末のある日、「お菓子を買ったから、日曜に来ませんか」と誘われた。断る理由を探せず、軽い気持ちで了承してしまった。
日曜の午後、隣室に入ると、部屋にはほとんど何もなかった。布団と小さな机、古い冷蔵庫と炊飯器。それだけが、異様に整然と並んでいた。菓子を食べながら世間話をしていると、彼は落ち着かない様子で、何度もこちらを見ては目を逸らした。
「三島さんは、どんなふうに死にたいですか」
耳を疑った。「そんなこと考えてない」と言うと、彼は急に声を荒げた。「言いましたよね。死にたくなるって」。同じ言葉を、何度も、確かめるように繰り返す。その目が赤く充血しているのに気づいた瞬間、危険だと悟った。
玄関に向かうと、チェーンがかかっていた。外そうとしている背後で、彼が何かを握りしめて立っている気配があった。刃物だったのかどうか、振り返る余裕はなかった。どうにか外に飛び出し、自分の部屋に逃げ込んだ。
その夜、玄関の外で鈍い音が一度だけした。確かめる勇気はなかった。翌朝、ドアを見ると、包丁が突き刺さり、鍵穴が壊されていた。警察に事情を話すと、巡回を増やすと言われた。
それからしばらく、彼の姿を見なくなった。警戒心も薄れ、日常が戻りかけた頃、残業帰りの夜、玄関を開けた瞬間に隣室のドアが開いた。月明かりの中で、彼がこちらを見ていた。何を言っているのか分からないまま、包丁を突きつけられ、部屋の奥へ追い込まれた。
必死に物を投げ、最後に目覚まし時計を投げつけると、彼はうずくまった。その隙に窓から飛び降りた。屋根に叩きつけられた痛みで意識が遠のきかけたが、気づけば周囲に人が集まり、警官の声が聞こえた。
その後、彼がどうなったのか、正確なことは知らない。精神病院に入ったと聞いた気もするし、すぐにいなくなったとも聞いた。管理人との雑談の中で、「舌を噛んで死んだらしい」という噂を耳にしたが、本当かどうかは分からない。
ただ、今でも時々思う。あのとき、自分が言った「死にたくなることはある」という言葉は、彼にとって何だったのか。慰めだったのか。共犯の合図だったのか。それとも、逃げ場のない約束だったのか。
今も知らない番号から電話が鳴ると、あの視線を思い出す。あの言葉が、まだどこかで待たれている気がして、受話器を取れないままでいる。
(了)