前に住んでいたアパートでのことを話そうと思う。
派遣社員として働いていて、そこそこ給料のいい現場にありつけたのはいいが、実家からは距離がありすぎた。朝は毎日六時に起きて電車に揺られる生活だったが、もともと朝が苦手な性分で、残業も多く、体力的にすぐ限界が来るのは目に見えていた。そこで、実家と会社の中間あたりの町に一人暮らしを始めることにした。あのとき選んだ安アパートが、すべての始まりだった。
部屋自体は古いが、管理人は親切そうな中年の男性で、どこにでもあるような建物だった。しかし隣室には、奇妙な住人がいた。第一日目、引っ越しの荷物を運び終えたその夜に、管理人から「隣の住人には気をつけて」と小声で忠告されたくらいだ。人がわざわざ初対面でそこまで言うということは、それなりの理由があるのだろうと思った。
案の定、騒ぎはすぐに始まった。ある日曜の真昼間、廊下に響き渡るような「いてぇぇ!」という叫び声に飛び起きた。見に行くと、隣人は手首にカミソリを当てて血を滲ませていた。救急車を呼ぶべきか迷ったが、本人は泣き笑いの顔で「大丈夫だから」と言う。結局、その後も彼は幾度となく騒ぎを起こした。夜中に裏のトタン屋根に転げ落ちてうめいていたこともあるし、天井にロープを括りつけて破壊し、管理人を怒らせたこともあった。
最初は迷惑でしかなかった。だが本当に死なれたら死なれたで、隣人という立場上、後味が悪い。そんな複雑な思いを抱えつつ暮らしていたある日、仕事帰りに廊下でばったり鉢合わせた。軽く会釈するつもりだったが、口をついて出た言葉は意外なものだった。
「何でそんなに死にたいんですか」
無神経すぎると今では思う。それでもその瞬間、隣人は崩れ落ちるように泣き出した。途方に暮れて、とりあえず自分の部屋に連れ込み、話を聞くことにした。
彼の語った身の上話は悲惨だった。幼い頃に両親が離婚し、母親に引き取られたが、母の再婚相手から日常的に虐待され、金も搾り取られているという。たまに訪れる強面の男はその関係者だったらしい。あまりに現実離れした内容に、正直半信半疑だった。だから軽く言ったのだ。「なら逃げればいいんじゃないですか。遠くに行けば」
すると、また泣き出した。母親にまで暴力が及ぶから逃げられないのだと訴える。その苦境を聞きながら、同情よりも戸惑いの方が勝った。ついには不用意にこう言ってしまった。
「俺だって死にたくなることあるけど、頑張ればどうにかなるよ」
その瞬間、彼の表情は光に打たれたように明るくなった。笑顔でじっとこちらを見つめてきて、背筋に冷たいものを感じた。
翌日から彼の態度は一変した。廊下に出れば必ず遭遇し、にやにやと話しかけてくる。見張られているような気さえして、不気味だった。ある週末、ついに「お菓子があるから日曜に来ませんか」と誘われた。軽い気持ちで承諾したが、それが間違いだった。
日曜、隣室に入ると、部屋にはほとんど何もなかった。布団と折り畳み机、冷蔵庫に炊飯器、それだけ。異様に殺風景な空間で菓子を口にしたが、彼の挙動は落ち着かず、目が泳いでいる。「どうかしたの」と聞いたとき、不意に口走った。
「三島さんは、どんな風に死にたいのかなって」
背筋が凍りついた。慌てて否定した。「俺は死にたいなんて言ってない」
すると彼は泣き叫びながら、「言ったじゃないか!死にたくなるって!」と繰り返す。事態が危険だと察して玄関へ走ったが、チェーンをかけられていて開けるのに手間取った。その間、隣人は赤く充血した目でこちらを睨み、手に何かを握っていた。刃物だったのかもしれない。命からがら外に飛び出し、部屋に逃げ帰った。
その夜、玄関に「ゴッ」と鈍い音がしたが、気づかないふりをして眠ろうとした。翌朝、新聞配達員と警官が玄関前に立っていた。ドアには包丁が突き刺さり、鍵穴は無残に壊されていた。心臓が喉を突き破るかと思った。事情を説明すると、警官はパトロールを強化してくれた。
それでも一ヶ月ほど経つと、警戒心も緩み、鉢合わせもなくなった。ようやく安心した矢先、残業帰りの夜、玄関を開けた瞬間、隣室のドアが開き、彼が飛び出してきた。包丁を突きつけられ、部屋の奥に追い込まれた。月明かりだけの部屋で、血走った目をした彼がぶつぶつ呟きながら迫ってくる。体が勝手に震え出し、投げられるものを片っ端から投げた。最後に投げた目覚まし時計が顔面に直撃し、彼がうずくまった隙に窓から飛び降りた。トタン屋根に叩きつけられて痛みに悶えたが、騒ぎを聞きつけた住人や警官が駆けつけ、彼は逮捕された。
刑務所を望んだが、精神鑑定の結果、精神病院行きとなった。これで終わりかと思ったが、三ヶ月後、彼は病院を抜け出し、俺の会社に押しかけてきた。幸い外回りに出ていたため無事だったが、会社に迷惑をかけたことで居づらくなり、退職することになった。
その後、管理人と食事に行った際、彼が病院で舌を噛んで死んだと噂を耳にした。本当かどうか確かめる術はない。もし事実なら、俺が不用意にかけた言葉が、彼を最後に追い詰めたのではないか。そう思うと、背筋に重いものが絡みつく。
結局、実家に戻り、再び職探しをしている。あの一連の出来事から学んだことはひとつ――下手な同情や優しさは、人を救うどころか破滅に導くこともある、ということだ。
(了)