あの夜の湿気を帯びた空気を思い出すたび、未だに背中がじっとりと汗ばんでくる。
あれは確か、夏の終わり、蝉の声とひぐらしの声が交じり合う、どこか季節の境目のような日だった。
家は山に囲まれた集落にあって、最寄りのコンビニまで歩けば三〇分、自転車でも一五分はかかるような場所だった。バスは一応通っていたけれど、本数は一日三本程度。定期代も馬鹿にならないので、毎日六キロの道のりを自転車で通学していた。
学校へ向かうには二つの道がある。一つは街中を回り込む平坦なルート。もう一つは、急勾配の山道を抜ける近道だ。私は汗をかくのが嫌で、たいていは街中のルートを選んでいた。けれど、あの日に限っては、少しでも早く帰ろうと思い、山越えの道を選んだのだった。
部活で遅くなり、薄暗くなった山道に入る前、分岐点にあるコンビニで缶のスポーツドリンクを買った。照明の下で缶の表面に浮かぶ結露を指で拭いながら、ふと空を見上げた。雲が焼けて、茜色の空が不気味なほど静かに沈みかけていた。
山道に入ると、舗装も不完全なガタガタの坂道に、ひぐらしの声が染み込んでくる。人影はもちろん、車のライトも通らない。ただ、自転車のギシギシと軋む音と、虫の鳴き声だけが耳に残る。どこか、世界から切り離されたような孤独を感じる時間だった。
汗が背中にまとわりついて、うっとうしさを感じながらも、ペダルを踏み続けていたその時、不意に背後から――
「も゛っ……も゛っ……も゛っ」
説明のしようがない、不気味な湿った呻き声が聞こえた。直後、頭の真上、いや肩の少し後ろあたりに、重たいものがドスンと落ちてきた。思わずハンドルがぶれ、バランスを崩しかける。自転車を漕ぐ姿勢のまま、上半身だけが無理矢理地面に押し付けられるような重み。腰から背中にかけて、冷たい汗がじわじわと浮き出し、ハンドルを握る手まで震えだした。
振り向くことはどうしてもできなかった。何かが乗っている。しかも、さっきの呻き声が、今はすぐ耳元で「む゛っむ゛……む゛っ」と繰り返されている。声というより、粘膜の擦れるような音だった。
涙が出るほどの恐怖に耐えながら、私はひたすら自転車をこぎ続けた。もう視界も足元も覚えていない。ただ、早くこの坂を越えたい一心だった。地元の人が口を揃えて「日が暮れる前に越えろ」と言う理由が、ようやく理解できた。
どれほど登ったか分からない。ふと視界が開け、峠の中腹の平らな場所にたどり着いた時、ようやく自転車を止めることができた。ハンドルに額を押し付け、肩で荒い息をつきながら、崖の方に目を向けると、そこに――
ぽつんと、小さな女の子が立っていた。
白いシャツの上にフードつきのパーカーを羽織り、デニムのスカートを穿いたセミロングの髪。夕日の影で顔はよく見えなかったが、六歳か七歳くらいに見えた。まるで、夏休みに迷子になった子供のように、何も持たず、ただそこにいた。
「なんで、こんな時間に、こんな場所に――」
言葉にならない疑問が頭の中で渦を巻く中、その子はふらりと近づいてきた。自転車を降りることもできず、私は固まったままだった。女の子は私の前まで来ると、じっと顔を見上げた。言葉は発しない。ただ、まっすぐに目を合わせてくる。
そして次の瞬間、両手で私の太ももを「パンパン」と、まるで埃を払うように軽く叩いた。
その顔が、ふっと笑った気がした。「安心して」――そんな声が、頭の中に直接響いたような気がした。そして彼女は、そのままくるりと踵を返し、崖の方へ走っていった。
慌てて「危ない!」と叫びながら自転車を降り、崖下を覗き込んだが、そこには何もなかった。草が揺れている様子もなく、足跡の一つもない。ただ、確かにあの子はそこへ走っていったのだ。
その時、背中の重みがふっと消えていたことに気づいた。呻き声も止んでいた。まるで、最初から何もなかったかのように。
帰宅してすぐ、私は祖母に話した。震える声で、女の子のこと、背中の重みのこと、すべてを語った。
祖母は黙って話を聞き終えると、仏壇の奥から葉のついた枝を取り出し、無言のまま私の頭から背中、腰までをパサパサと払った。何の木かは分からなかったが、葉の先が微かに甘い香りを放っていた。
「お前、やまけらし様に会ったんじゃな……」
ぽつりと祖母が言った。
それは山の神の子供だという。全部で十二人いて、普段は何もしないが、山に棲む悪しきものと出くわした時だけ、人を助けることがあるのだと。
「お前が背負ったものは、向こうの世界へ引っ張るやつじゃ。普通なら、もう戻ってこれん……。けれど、やまけらし様が哀れんで、払ってくださったんじゃろうな……」
私は何も言えなかった。ただ、助けてくれたあの子の笑顔だけが、頭の中で繰り返されていた。
何かお礼をしたい。そう思った私は、祖母に昔のお供えの話を聞いた。草鞋を十二足、峠に供えるのだという。けれど、今どき草鞋なんて売っていない。そこで私は、あの子の姿を思い出し、小児用のスニーカーを供えることにした。
近所のスーパーで安物のスニーカーを二足ずつ、週に一度買い揃え、朝の登校時、峠の草むらに並べていく。供えた次の日には、靴は必ずなくなっていた。風に飛ばされたのではない、動物が咥えていった様子もない。ただ、綺麗に、ぽっかりと消えている。
やまけらし様が履いてくれたのだ。そう信じた私は、学校への道を自然と山越えに変えていた。もしかしたら、また会えるかもしれない――そんな淡い期待を胸に。
背中に落ちてきた何かの正体は、今でも分からない。けれど、あの子がいなければ、今ここにこうしてはいられなかったのだと思う。
あの山を越えるたび、風が走り抜ける音の中に、遠く、小さな足音が混じって聞こえるような気がする。
それが、スニーカーを履いたやまけらし様の靴音なのかどうかは、誰にも分からない。
[出典:206 :本当にあった怖い名無し:2010/11/10(水) 19:01:54 ID:nOPO0RK70]