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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

植木鉢の眼 nc+

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この話を打ち明けると、必ず周囲が黙り込む。

夜の空気には湿気が多く、肌に薄い膜を張るようにまとわりついていた。

ここは九州某県、海岸線からさほど離れていないため、潮の匂いと古びた店の黴の匂いが混ざり合って、独特の重苦しい臭気を作り上げている。壁に掛けられた時計の秒針だけが、ちいさな、しかし確実な音を立てていた。深夜零時を過ぎ、店内の蛍光灯は一本だけが点灯され、その光も不安定で、白い壁紙の染みを不気味に浮かび上がらせていた。

深夜の出張依頼は、馴染み客からのものだった。店外での施術は基本的に禁じられているが、オーナーも「翌朝に響かないなら」と渋々許可を出した。私の手は、既に一日の疲労で熱を帯び、客の背中にある筋肉の固まりを探る指先も、僅かに震えていた。客は同性で、体格も良く、揉み応えがある。その疲労が深く沈んだ身体を解していく作業には、一種の達成感があった。

窓の外は完全に闇に閉ざされ、舗装路の反射も僅か。この地域の深夜は、車はおろか人通りもほとんど途絶える。静寂が支配する中で、私の耳は客の微かな寝息と、自分の体内で巡る血流の音だけを拾っていた。意識が一点に集中し始めると、周囲の気配に対する警戒心は薄れる。それが、逸脱の始まりだった。

施術を始めて一時間ほど経った頃、有り得ない方向から、肌に突き刺さるような視線を感じた。場所は、客室の隅、壁際の植木鉢の根元。観葉植物は葉が薄暗い光を浴びて、湿気で濃い緑色に見える。その影の部分から、確かに何かがこちらを見ているという、明確な圧力があった。

意識の焦点が植木鉢の根元に引き寄せられるたび、頭の中で「気のせいだ」という否定の言葉が反復した。疲労による幻覚か、あるいは深夜という時間帯が生む妄想だと、理性で蓋をしようとする。しかし、その視線は単なる気配ではなく、肌の表面を這うような、物理的な冷たさを伴っていた。

時計がその植木鉢のすぐ隣にあったのが、不幸だった。時間を確認しようと、目を向けざるを得ない。その時、植木鉢と壁の僅かな隙間、土の表面近くに、こちらを真っ直ぐに睨みつける、獣のような眼があった。白目は濁り、瞳は闇に溶け込みそうなほど黒く、瞬き一つしない。

それは動物の眼というよりも、顔の一部が切り取られて、そこに嵌め込まれたかのような不自然さだった。恐怖というよりも、まず疲労による自己懐疑が襲った。「私の方が疲れているのか、それともこの客に何か憑いているのか」。施術を中断するわけにはいかない。私はその視線を「意識の外」に排除し、客の凝り固まった肩甲骨に体重をかけた。

その出来事は、日常の不意打ちだった。翌週、同じ客が再び深夜の予約を入れた。視線は、再び感じられた。場所も同じ、植木鉢の根元。私は今度は、意図的にその方向を見ないようにした。身体は正直で、その視線を感じるたび、指先の力が僅かに緩むのがわかった。

「早くここから出たい」という願望が、毎日の生活を規定していた。

親戚も友人もいないこの土地での生活は、湿った空気のように重苦しく、私の心を常に苛立たせていた。地域の風習にも食べ物にも馴染めず、方言のイントネーション一つ一つが、私を部外者として弾いているように感じられた。

深夜の仕事は、慣れない土地での孤独と、身体的な疲労をさらに増幅させた。客からの「寝そうだから話して良い?」という提案は、この重い沈黙を破るための、一種の逃避だったのだろう。しかし、その話の内容は、私の苛立ちを別の方向へと向けさせた。

客は、元夫の話をし始めた。自営業の失敗、莫大な借金、そして行方不明。その事実を、彼女は実に楽しそうに、そして一方的に、悪口雑言を連ねながら話す。見合いではなく、愛し合って結婚したはずの相手に対する、聞いていて辛くなるほどの罵倒。それは、私の中に僅かに残っていた「情」のようなものを、冷酷に凍結させる。

その話を聞いた瞬間、私は納得した。植木鉢の根元から感じたあの怨嗟の視線。それは、元夫のものに違いない。逃げた男の、現実に立ち向かえない、しかし呪う力だけを持った魂。客の口から吐き出される悪意に満ちた言葉が、その視線の存在を補強していく。

客の話し方には、自分を被害者として祭り上げる強い意志があった。全ては元夫のせい、親に訴訟を起こさせたのは元夫の非。その声は明るく、軽やかで、まるで他人の悲劇を語るようだった。その過剰なまでの楽しそうな調子が、私の背中に薄い汗をかかせた。

自分の心の中で、静かな嫌悪感が膨らんだ。マッサージ師として、客の身体を解すことはできるが、その内側にある負の感情まではどうすることもできない。むしろ、その感情に触れてしまうこと自体が、自分の精神を汚染しているような錯覚に陥る。

そんな時、一通のメールが届いた。「狐憑きは祓えますか」。疲労困憊の頭には、ふざけているとしか思えなかった。私は言葉を選び、丁寧にお断りの返信をした。しかし、数週間後にかかってきた電話は、その静かな拒絶を打ち破った。

「狐を祓って欲しいんですよ!」という女性の声は、強引で、耳障りだった。私は面食らいながらも、自分にはそんな資格も技能もないことを、やんわりと、しかしきっぱりと伝えた。断っても、電話は何度もかかってくる。その執拗さが、私の心に不必要な緊張と、深い疲労を刻みつけた。

「狐憑きを祓え」という電話の女性の声には、理性の欠片も感じられなかった。

彼女は私の言葉を理解しようとせず、ただ要求を繰り返す機械のようだった。数週間後、その電話が途絶えた時、私はようやく解放されたと安堵した。しかし、それは束の間の平穏だった。

一ヶ月後、その女性は予約もせずに来店した。私が他のお客様を施術中にも関わらず、店内に上がり込み、「私に憑いてる狐を祓って欲しいんですよ!」と大声を上げる。私は混乱と、プロとしての羞恥心を感じた。客に迷惑がかかることを恐れ、時間を改めるよう丁寧に懇願するが、彼女は同じ言葉を鸚鵡返しにするだけ。

運転手らしきお連れ様が一人いたが、彼は事態を収拾しようともせず、ただニヤニヤとこちらを見ている。その冷笑的な視線が、私の中の最後の自制心を揺さぶった。この状況は、もはや私の能力の範疇を超えている。

私は声を少し強め、毅然とした態度で伝えた。「申し訳ございませんが、私は国家資格を持った鍼灸指圧師ではありません。お医者様や専門家にご相談ください。それと、これ以上しつこいようでしたら、警察に偽計業務妨害で相談します」。この「警察」という言葉が、効いた。

連れの男が慌てたように、女性の手を掴み、店外へと連れ出した。女性は最後まで「狐」と叫んでいたが、その声は店のドアが閉まると同時に遮断された。残されたのは、奇妙な静寂と、先程まで施術を受けていたお客様の動揺だけだった。

そのお客様は、実はオーナーのご親戚で、常連客だった。私は深々と頭を下げ、事態を詫びた後、残りの施術時間を少し長めにサービスした。すると、彼女は私に向かって、静かに言った。「昔はね、ああいう人がここら辺にはいっぱい居たのよ。久し振りに見たわ」。その言葉の裏に込められた含みは、私には理解できなかった。

「あんな人がいっぱい」という言葉が、まるでこの地域全体が抱える負の遺産を示唆しているようで、背筋が冷えた。私は単に疲労回復のためのマッサージを提供しているだけなのに、なぜかこの土地の暗部に引きずり込まれているような感覚に襲われる。

植木鉢の視線、狐憑きを名乗る女性。それらは私にとって、この土地から逃げ出すための強力な動機付けとなった。しかし、その二つの出来事の間には、何かしらの関連性があるような気がしてならない。言葉にはならない、この土地特有の「何か」に、私自身が囚われ始めているのではないか、という疑念。

後日、件の深夜客が再び来店した。

いつも通り、彼女の身体は凝り固まっている。しかし、その日は施術中、彼女は一切、元夫の話をしなかった。代わりに、自分自身の過去の過ち、些細な不倫や、親との軋轢について、沈んだ声で語り始めた。悪口雑言で他人を断罪するのではなく、自己を省みるような口調。

その時、私は再び植木鉢の根元に、あの視線を感じた。しかし、その眼は以前のように憎悪に満ちたものではなかった。むしろ、深い諦めと、そして微かな安堵のようなものが混ざっているように見えた。客が自己の欠点を語り始めたことで、視線の主は「許された」のだろうか。

施術が終わり、客はいつもより深く頭を下げて帰っていった。私はその日の売上を計算し、店の蛍光灯を消した。自分の部屋に戻り、冷たい水で顔を洗う。鏡に映った自分の顔は、目の下に濃い隈を作り、疲労の色が濃かった。しかし、それ以上に、私の目つきが、以前とは違っていることに気づいた。

私の眼は、まるで何かを睨みつけているかのように、僅かに吊り上がり、白目が濁っている。それは、植木鉢の根元で見た、あの眼と瓜二つだった。心臓が、喉の奥で激しく脈打つのを感じる。身体の芯が冷えていく。

次の日、私はオーナーに辞職を申し出た。理由は「一身上の都合」とだけ伝えたが、本当の理由は、逃亡だった。この土地から、そして、私の身体に宿り始めた何かから。オーナーは引き止めなかった。それどころか、「ああ、やっとか」と、まるで予期していたかのような表情を見せた。

荷物をまとめ、夜行バスに乗り込んだ。車窓の外を流れる暗い景色の中、私は自分の手を見た。指先が、無意識に何かを揉むような動作を繰り返している。それは、客の身体の硬い部分を探し出す、マッサージ師の癖。

そして、ふと気づく。私がここに来てから、ずっと「早くここから出たい」と願っていたその苛立ちと執着は、植木鉢の根元にいた「何か」の視線が、私に乗り移ったからではないのか。

狐憑きを祓って欲しいと願った女性も、元夫を罵倒した客も、そして私自身も、この土地の持つ怨嗟を、誰かに押し付けたかっただけではないか。一番怖いのはやはり人間だ。そう思っていたが、最後に残ったのは、その人間の身体を借りて、この場所に留まりたいと願う、名状しがたい疲労の残留思念だった。

バスの窓ガラスに映る自分の顔の眼が、今も、私自身を睨みつけている気がしてならない。

(了)

[出典:投稿者「東京から来た人」 2020/03/11]

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