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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

一度食べたら戻れない蕎麦 nw+545-0213

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あのときの記憶は今も舌に、いや、もっと奥に――骨の髄にまで焼き付いている。

きっかけは、一本のメールだった。大学時代の友人から届いた、題名も本文もなく、妙にぞんざいな一文だけのメールだ。

今日、本気で蕎麦打つってよ

差出人は、普段からくだらないチェーンメールを送りつけてきたり、深夜に突然電話してきては「俺の親指の爪が今光ってる」などとわけの分からないことを言う男だった。だから最初は冗談だと思った。だが、文末の住所に見覚えがあった。

車で一〇分ほど先にある、安いが取り立てて旨くもない蕎麦屋。暖簾は褪せ、玄関の上の照明はいつも薄暗い。卓上の爪楊枝は湿っていて、触るとぬめる。味より量、そして値段で勝負している、そんな店だった。学生や土方の連中が黙々と腹を満たすだけの場所。

そこが、今日だけ「本気で蕎麦を打つ」と宣言したという。

妙に引っかかった。馬鹿にしているはずなのに、体のどこかが引っ張られる。僕はその日の夕方、友人ふたりと連れ立って暖簾をくぐった。

店内はいつもと変わらない古びた匂いに満ちていた。油の抜けた天かすの香りと、湿った畳の匂い。だが、違ったのは音だった。奥の厨房から、トントントン、と一定の間隔で刃がまな板を叩く音がしている。次いで、水を打つような音。鉢を擦る音。普段ならテレビがうるさく鳴っていて、店主は無言で茹でて出すだけなのに、その日は店全体が、音に合わせて息をしているようだった。

やがて出てきた蕎麦を見て、まず目を疑った。

白銀に光る麺だった。水気を纏いながら、一本一本が細い糸のように揃っている。いつもの灰色がかったぶつ切りの蕎麦とは別物だ。

ひと口すすった瞬間、世界がひっくり返った。

言葉を失った。舌の奥でほどけ、香りが鼻腔を突き抜け、胃の腑まで駆け抜けていく。噛んだ途端に、小麦でも蕎麦粉でもない、もっと原初的な何かを咀嚼しているような錯覚に陥った。命の粒を直接噛み潰している。そうとしか言いようがなかった。

同行した友人も黙り込んだ。啜る音だけが並び、店の中が静かに熱くなった。まるで誰かに見張られているみたいに、三人とも余計な言葉を出せなくなった。

蕎麦湯を持ってきた店員を呼び止め、僕は思わず問いただした。

「これ、どうやって作ったんだ」

店の奥から店主が出てきた。五十代半ばほどの小柄な男で、普段は愛想もなく、どこにでもいる疲れ切った中年の顔をしている。なのにその日は血色が良く、目の奥だけが妙に乾いて光って見えた。

店主は困ったように笑って言った。

「今日は……分からんのです。ただ、朝起きたときに思ったんですよ。今日は旨い蕎麦が打てるって。そう思ったら、手が勝手に」

その言い方が、引っかかった。誇らしさではなく、戸惑いに近い。自分の手を自分のものだと思えていない顔だった。

けれど僕たちは、ただ頷くしかなかった。あの味を前にしては、理屈は無意味だった。

店を出たとき、胸の奥が震えていた。これからは好きなときにあの味にありつけるのだ、と。三人で笑い合いながら帰路についた。僕は帰り道の信号待ちでも、口の中に残る香りを何度も確かめていた。舌が勝手に、もう一度啜る動きをする。変な癖がついたみたいだった。

その夜、寝床に入ろうとした矢先、別の友人から電話がかかってきた。受話器の向こうの声はひどく取り乱している。

「あの店主、倒れた。救急車で運ばれたって」

冗談かと思った。だが翌朝、新聞の地方欄に小さな記事が出ていた。

市内の飲食店経営者、店内で倒れ死亡

店名は載っていない。年齢と地域だけが一致していた。僕は紙面を指でなぞりながら、妙な違和感を覚えた。記事の中に、たった一文だけ説明にならない文が挟まっていた。

「発見時、厨房付近の床に粉状のものが散乱していた」

粉状のもの。蕎麦粉だろう。そう思えばそれで終わる。なのに、その言い方だけが不自然に硬かった。まるで、蕎麦粉と書いてはいけないような。

その店はそれきり閉まった。暖簾は畳まれ、建物は取り壊され、跡地には月極駐車場ができた。灰色のアスファルトが敷かれ、白線が引かれ、番号が振られた。そこだけが、何事もなかったみたいに整っている。

僕は一度だけ、解体前の店を見に行ったことがある。ガラス戸には「臨時休業」とだけ貼られていた。曇ったガラス越しに覗くと、薄暗い店内にはまだテーブルや椅子が残されていた。客席の端には、水の入ったコップがいくつか置きっぱなしになっている。あの日のまま時間が止まったようだった。

そのときだ。

奥の厨房の方から、かすかな音が聞こえた。

トントントン。

刃がまな板に当たる音。間隔も、強さも、あの日と同じだ。続いて、ざらりと粉を擦るような音、水を打つ音。僕は息を止めた。店の中に誰かがいるはずがない。店主は死んだ。鍵もかかっている。なのに、厨房だけが働いている。

気づけば、無意識にガラス戸に手をかけていた。押しても引いても動かない。鍵が固く閉まっている。なのに、鼻先をかすめたのは蕎麦の香りだった。湯気の匂いまでした。ガラスの向こうの暗がりから、誰かがこちらを見ている気配がした。見えないのに、見られていると分かった。

僕は逃げ出した。背筋を焼くような恐怖と同時に、どうしようもない渇望が胸を締め付けていた。もう一度、あれを口にしたい。逃げたいのに、足は戻ろうとする。腹の奥に飢えたものが棲みついたみたいに、胃が鳴った。

それから、僕は蕎麦を食べ歩いた。名店と呼ばれる店にも行った。予約が必要な店にも、山奥の隠れ家にも。喉越しがどうとか、香りがどうとか、通ぶった言葉も覚えた。けれど、どれも違った。

美味しい。確かに美味しい。だが、あの日の一杯は美味しいではなかった。食べ物の枠を外れていた。あれを知った舌は、普通の蕎麦を蕎麦として受け取れなくなった。噛むたびに、何かが足りないと分かる。香りが薄いという意味じゃない。もっと根の部分だ。食べているのに、食べていない。満たされるはずの穴が、逆に広がっていく。

おかしな変化は、そこから始まった。

最初は、夜に目が覚めるだけだった。喉が渇く。舌が痺れる。水を飲んでも、渇きが引かない。口の奥に粉がこびりついている感覚がする。歯を磨いても取れない。舌でこすっていると、ざらりとした粒が増える気がした。

次に、音が変わった。

台所で包丁を使うと、トントントン、と一定の間隔に揃ってしまう。意識してリズムを崩そうとしても、手が勝手に戻る。まな板を叩く強さまで同じになる。ぞっとして包丁を置くと、今度は冷蔵庫の製氷機が、トントントン、と鳴る。エアコンの風が、粉を擦るみたいな音を混ぜてくる。隣室の足音が、蕎麦切り包丁の音に聞こえる日もあった。

一番まずかったのは、人の食事を見たときだ。

同僚が昼にうどんを啜っている。ラーメンを啜っている。パスタを巻いている。その音が、全部、蕎麦を啜る音に聞こえる。匂いも混ざる。コンビニのおにぎりから、蕎麦の香りが立ち上る。駅のホームの立ち食い蕎麦屋を通るだけで、胃の奥がひっくり返る。口の中に水が溢れて、喉が勝手に啜る準備を始める。

僕は、蕎麦を避けるようになった。

なのに、夢が追ってくる。

暗い店内。ざらついた木のテーブル。奥の厨房から聞こえる音。僕はいつも座っている。目の前には漆黒の丼。その中で銀色の糸が冷たい水に揺れている。箸を伸ばす。唇に触れる。口へと運ぶ。

そこで必ず目が覚める。

喉は渇き、舌は痺れ、胃の奥で飢えた獣が唸っている。起き上がって水を飲む。だが水は水の味がしない。口の中で粉に変わる。吐き出そうとしても吐き出せない。飲み込むと、腹の底で何かがトントントン、と叩く。

僕はある日、ふと思ってしまった。

あの日の店主は、死んだのだろうか。

新聞にはそう書いてあった。周囲もそう言った。跡地は駐車場になった。全部、そういう形で整っている。けれど、僕の中では終わっていない。音が続く。匂いが続く。渇きが続く。味が、続く。

終わっていないものがあるのに、終わったことにされている。

その矛盾が、いちばん怖い。

最近は、蕎麦という言葉を見るだけで口の中に水が溢れる。看板の「そば」を見ただけで、舌が勝手に動く。テレビで麺を啜る音がすると、体が小さく震える。外を歩いていても、どこかでトントントン、と聞こえる。工事現場の金属音が、まな板の音に変わる。信号機のカチカチが、蕎麦切りの間隔に揃う。

たぶん、もう逃げ場はない。

僕は、あの日、何を食べたのだろうか。

そして、今、何を食べているのだろうか。

書いていて、口の中がざらついてきた。舌の奥に粉が溜まる。唾を飲むと、喉が細く鳴った。箸を持っていないのに、口が勝手に啜ろうとする。胃が、空腹とは違う形で痙攣する。

あなたが今、何かを食べているなら、一度だけ確かめてほしい。

噛んだとき、ざらりとした粒が増える感じがしないか。
飲み込んだあと、腹の底でトントントン、と一定の間隔が鳴らないか。

もし鳴ったなら、それはたぶん、あなたの台所の音ではない。

あの店はもうない。暖簾もない。店主もいない。駐車場の白線だけがある。

なのに、打っている。

今日も、本気で。

[出典:808 :本当にあった怖い名無し:2008/04/13(日) 18:51:35 ID:NrDSNcWQ0]

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