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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

本気の蕎麦 n+

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あのときの記憶は今も舌に、いや、もっと奥に――骨の髄にまで焼き付いている。

きっかけは、一本のメールだった。大学時代の友人から、題名も本文も妙にぞんざいな一文だけのメールが届いた。
「今日、本気で蕎麦打つってよ」

何の冗談かと思った。差出人は普段からくだらないチェーンメールを送りつけてきたり、深夜に突然電話してきては「俺の親指の爪が今光ってる」などとわけの分からないことを言う男だったからだ。だが今回は、違った。文末に添えられていた住所に見覚えがあった。

車で一〇分ほど走った先にある、安いが取り立てて旨くもない蕎麦屋。店構えは古びていて、暖簾は褪せ、卓上には湿った爪楊枝が無造作に詰め込まれている。味よりも量、そして値段で勝負している、そんな場所だった。学生や土方のおっちゃんたちが黙々と腹を満たす、ただそれだけの店。

そこが突然、「今日は本気で蕎麦を打ちます」と玄関に貼り紙を出したのだと。

妙に引っかかった。冗談めかした文言に見えながらも、わざわざ張り紙をするほどの「宣言」。それに、この友人が態々知らせてきたのも気になる。僕は半ば馬鹿にしながらも、その日の夕方には、友人ふたりと連れ立ってその店の暖簾をくぐっていた。

店内は、いつもと変わらない古びた匂いに満ちていた。油の抜けた天かすの香りと、湿った畳の匂い。だがどこか、空気が異様に澄んでいるように感じた。奥の厨房からは、カタカタと鉢を打つ音、蕎麦切り包丁がまな板を叩く小気味よい音が響いてきて、普段より張りつめた空気が漂っていた。

やがて出てきた蕎麦を見て、まず目を疑った。
白銀に光る麺。水気を纏いながら、一本一本がまるで細い糸のように輝いている。いつもの灰色がかったぶつ切りの蕎麦とはまるで違う。

ひと口すすった瞬間、世界がひっくり返った。

言葉を失った。舌の奥でほどけ、香りが鼻腔を突き抜け、胃の腑まで駆け抜けていく。噛んだ途端に小麦でも蕎麦粉でもない、もっと原初的な何か――命の粒そのものを咀嚼しているかのような錯覚に陥った。
同行した友人も黙り込み、ただ目を見開いて麺を啜る音だけが響いた。

こんな蕎麦は食べたことがない。
どんな名店も、この一杯の足元にも及ばない。
それは「美味しい」という概念を越えた、言葉の外側にある体験だった。

蕎麦湯を持ってきた店員を呼び止め、僕は思わず問いただした。
「これは……一体どうしたんだ。どうやって作ったんだ」

すると、店の奥から店主が現れた。
五十代半ばほどの、目立たぬ小柄な男だった。普段は愛想もなく、どこにでもいる疲れ切った中年の顔をしていたのに、その日は妙に血色がよく、瞳がぎらついて見えた。

彼は少し困ったように笑いながら答えた。
「今日は……分からんのです。ただ、朝起きたときに思ったんですよ。『今日は旨い蕎麦が打てる』って」

それ以上の説明はなかった。だが僕たちは、ただ頷くしかなかった。あの味を前にしては、理屈など意味をなさなかったのだ。

店を出たとき、胸の奥が震えていた。これからは好きなときにあの味にありつけるのだ、と。幸福感に包まれて、三人で笑い合いながら帰路についた。

しかし、その夜のことだった。

寝床に入ろうとした矢先、別の友人から電話がかかってきた。受話器の向こうの声は、ひどく取り乱していた。
「……あの店主、倒れたらしい。救急車で運ばれたって」

冗談かと思った。けれど、翌朝には新聞の地方欄に小さく記事が出ていた。
『市内の飲食店経営者が脳内出血で急逝』
あまりに唐突だった。

そしてその店は、二度と開くことはなかった。暖簾は畳まれ、建物は取り壊され、跡地には灰色のアスファルトが敷かれ、無機質な月極駐車場へと姿を変えた。

――あの味は、あの日一度きりの奇跡として封じられた。

だが、話は終わらない。

葬儀のあと、ひとりで蕎麦屋の前を訪れた。まだ解体される前で、店のガラス戸には「臨時休業」とだけ貼られていた。曇ったガラス越しに覗くと、薄暗い店内にはまだテーブルや椅子が残されていた。
ふと、奥の厨房の方から、かすかな音が聞こえた。

――トントントン、と包丁の音。

息を呑んだ。空っぽのはずの店から確かに聞こえてくる。
耳を澄ますと、水を打つ音、粉を捏ねる音。あの日と同じ、研ぎ澄まされた調理の音が続いていた。

気づけば、無意識にガラス戸に手をかけていた。
だが鍵は固く閉ざされており、押しても引いても開かなかった。
それなのに――鼻先をかすめたのは、あの日と同じ蕎麦の香りだった。

僕は慌てて逃げ出した。背筋を焼くような恐怖と同時に、どうしようもない渇望が胸を締め付けていた。もう一度、あの蕎麦を食べたい。舌が、胃が、全身があの味を求めていた。

それから幾度となく蕎麦の名店を巡った。名だたる老舗から山奥の隠れ家まで、ありとあらゆる蕎麦を食べ歩いた。けれど、どれも違った。あの日の一杯には二度と出会えなかった。

気づけば、夜な夜な夢に見るようになった。
暗い店内、ざらついた木のテーブル、そして奥の厨房から聞こえるあの音。
夢の中で僕はいつも座っている。目の前に置かれる漆黒の丼、その中で銀色の糸が冷たい水に揺れている。箸を伸ばす――唇に触れる――口へと運ぶ――

そこで必ず目が覚める。
喉は渇き、舌は痺れ、胃の奥で飢えた獣が唸っている。

今でも思うのだ。
あの日、僕が口にしたものは、本当に蕎麦だったのだろうか。
それは、店主が己の命と引き換えに練り上げた、何か別のものだったのではないか。

あの味を知ってしまった僕の舌は、二度と現実の食べ物で満たされることがなくなった。

――つまり、僕はまだ、あの蕎麦を食べ続けているのだ。
夢の中で、あるいは幻覚の中で。
骨の奥で、血の流れの中で。
あの日を最後に、決して終わらない「本気の蕎麦」を。

[出典:808 :本当にあった怖い名無し:2008/04/13(日) 18:51:35 ID:NrDSNcWQ0]

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