初めて海外へ出たのは、二十代の終わりだった。
仕事にも生活にも行き詰まりを感じていて、気分転換のつもりで申し込んだ団体旅行だった。行き先は中国の杭州。湖と山に囲まれた古い街で、写真で見る限りは穏やかで美しかった。なぜそこだったのかは覚えていない。ただ、知らない場所へ行きたかった。それだけだった。
参加者は二十人ほど。全員日本人で、現地では日本語の上手なガイドがついた。予定は詰め込まれていて、湖を見て、寺を巡り、土産物屋に立ち寄る。よくある行程だった。空気は湿って重く、街全体が薄い膜に包まれているように感じられた。西湖の水面は曇った空を映し、底が見えない。
問題の寺に着いたのは午後だった。敷地は広く、門をくぐった瞬間から香の匂いが鼻にまとわりついた。観光客の足音、笑い声、どこかで鳴る鐘。僧の声も聞こえていたが、意味は分からない。ただ低く、長く伸びて、空気に染み込んでいた。
回廊を抜け、いくつかのお堂を巡った。中は薄暗く、金色の像が並んでいる。どれも似たような顔で、似たような姿勢をしていた。私は特別な信仰心があるわけでもなく、他の参加者と同じように、写真を撮り、軽く頭を下げるだけだった。
その堂で、私は立ち止まった。
像の前に立ったとき、視界の端で何かが動いた。最初は光の反射だと思った。だが、次の瞬間、それは像の中から滲み出るように現れた。影だった。影のはずなのに、立体があった。
人の形をしていた。ただし、比率がおかしい。腕が異様に長く、脚も伸びすぎている。体は細く、衣のようなものをまとっていたが、布なのか皮膚なのか判然としなかった。頭には何か被っているようにも見えた。顔はあったが、表情を読み取ろうとすると、視線がずれる。
それは、こちらを見ていた。
周囲を見回した。誰も反応していない。隣の参加者は像に向かって手を合わせ、ガイドは入口の方で別の客に説明をしている。私だけが、その場から切り離されたようだった。
それは、音を立てずに近づいてきた。歩いているのか、滑っているのか分からない。距離が詰まるにつれ、空気が冷たくなった。湿った土の匂いがした。
声がした。言葉だったと思う。だが、何語かは分からない。意味を取ろうとすると、頭の奥が拒む。質問の形をしているのは分かった。何かを確かめようとしている。私は、なぜか強く思った。答えてはいけない。
理由はない。ただ、そうしなければならないと分かった。
私は横にいた同行者の袖を引き、視線を逸らすようにして別の方向を指した。意味のないことを口にした気がする。相手は何も疑わず、うなずいた。その間にも、それは距離を詰めていた。顔がすぐ近くにあった。息が触れた。冷たく、重い。
それは、まだ何かを尋ねていた。繰り返し、同じ調子で。私は聞こえていないふりをした。見えていないふりをした。必死で、何も感じていない顔を作った。
しばらくして、それは動きを止めた。首をわずかに傾けたように見えた。感情は分からない。ただ、失望に近いものが伝わってきた。
最後に、短い言葉が落ちた。意味は分からなかった。だが、その音だけが、異様に耳に残った。
次の瞬間、それは像の中へ戻っていった。溶けるように、影が消えるように。堂内の空気が一気に戻り、鐘の音が鳴った。僧たちが入ってきて、整然と並び始めた。ガイドが外へ出るよう促した。
私は何も言えないまま、流れに従った。振り返る勇気はなかった。
その後の旅程は、途切れ途切れにしか覚えていない。三日目、移動中のバスが急停車した。車体が大きく傾き、悲鳴が上がった。何かに衝突する音がして、止まった。外を見ると、すぐ先は崖だった。運転手の顔が真っ青だった。
助かった、と誰かが言った。
本当に助かったのか、そのときは分からなかった。
帰国してから、夜になると目が覚めることが増えた。夢の中で、あの堂に立っている。像の前にいる。背後に気配を感じる。振り向く前に、問いかけが始まる。毎回、少しずつ違う。言葉ではないこともある。だが、必ず「こちらを見ているか」と確かめられる。
最近、夢の中でそれが私のすぐ後ろに立つようになった。もう正面からは来ない。影だけが伸びて、私の足元に触れる。私は相変わらず答えない。答えられない。
目が覚めると、自分がどこにいるのか、一瞬分からなくなる。ここが本当に帰ってきた場所なのか、判断がつかない。確認するように、名前を口に出そうとして、喉が止まる。
もし、あのとき。
もし、こちらを向いたまま、何か一つでも返していたら。
そう考えると、今いるこの場所が、帰国した先なのか、それとも別のどこかなのか。区別ができなくなる。
最近、誰かに見られている気がする。振り返っても、何もいない。ただ、視線だけが残っている。問いは、まだ終わっていないのだと思う。
[出典:305 :本当にあった怖い名無し:2015/05/09(土) 19:11:02.36 ID:Fk5mkV6fO.net]