大阪で万国博覧会が盛大に催された年のことを、いまでも鮮やかに思い出せる。
あの頃の私は典型的なヒッピーで、東京からヒッチハイクで関西へ入り込み、外国人でごった返す夜の繁華街をひやかし半分で歩き回っていた。街は妙に熱を帯びていて、白熱球の光も、汗ばむ人混みも、異国の香辛料の匂いすらも、すべてが混ざり合って陶酔の渦のように思えた。
そんな時だった。三十歳前後に見える、妙に焦った目つきの男に声を掛けられた。
最初はキャッチだろうと思い、「金はないよ」と手を振った。ところが、返ってきたのは「逆だよ、金になる話だよ」という奇妙な言葉だった。訛りが混じっていて、どうやら大阪の人間ではなさそうだった。
「どういうこと?」とつい足を止めた。
あの時、聞き流して立ち去っていれば良かったのだ。だが私は妙に引っかかり、まんまと餌に食いついた。
「アルバイトだよ。二、三時間飲み食いしてるだけ。話す必要もない。金は弾む」
そう説明したあと、彼は声を潜めて続けた。どうやら新興宗教の幹部が海外から来日していて、その接待に信者が大勢集まっているはずなのだが、実際には水増し報告で、本部に知られれば大問題になるらしい。だから空席を埋めるため、急遽サクラを雇っているのだという。
「もう時間がないから、バイト料も跳ね上がってる」
そう告げられると、こちらも酔いがまわったようにすぐ頷いてしまった。彼は手配師にすぎず、私に前金を渡すと、次の獲物を探しに人混みに消えた。
指定の場所へ向かう足取りは軽かった。
服装はヒッピー丸出しの派手な格好で、そのままでも違和感ないだろうと言われていた。幹部は日本語ができないし、日本側の連中は事情を承知している。会話も不要、身元がばれることもない。気楽な遊び半分のバイトだと思い込んでいた。
ところが到着してみると、そこは場末の古びた雑居ビルの地下で、パーティー会場と呼ぶには余りにもみすぼらしい。私は少し落胆した。高級な酒どころか、まともな食事すら期待できそうにない。
重たいドアをノックすると、よれよれのスーツに身を包んだ痩せぎすの男が無言で顔を出した。暗号めいた文字が殴り書きされた名刺を渡すと、男は黙って頷き、私を中へ通した。
そこは退廃的なバーを改造したような空間で、照明は異様に落とされていた。奥には人だかりがあるのがぼんやり見えた。
一歩足を踏み入れた瞬間、靴底がぬるりと滑り、危うく転びかけた。足元に油のようなものが薄く張りつめていたのだ。その時、奥からどっと笑い声が上がった。私が派手に転ぶのを期待していたかのようなタイミングだった。
胸に冷たいものが走ったが、私は笑って誤魔化し、そのまま奥へ進んだ。
照明の陰に、外国人らしき大柄な男の影があった。彼が例の幹部だろう。背後には信者らしい日本人が並んでいたが、彼らの顔はみなこわばっていて、笑顔というよりは引きつった仮面のようだった。
奇妙なざわめきの合間に、薄い壁の向こうから小さな声が聞こえた。女の子の声だと直感した。囁きにも似た断続的な声で、内容は分からない。
油の匂いと混じり、甘ったるい香の煙が鼻を刺した。吐き気をこらえているうちに、私の存在に気づいた幹部が、突然こちらを指差した。
低い声で何かを命じている。通訳のような役目の男が私を見て、ゆっくり頷いた。
「お前がやれ、と」
意味が分からなかった。何を? 誰に?
気づけば信者たちの視線が私に集まっていた。奥から小さな灯りが近づいてくる。火だ。蝋燭の炎を掲げた影が浮かび、その後ろに縛られた人影があった。
私は凍りついた。
それは小さな少女だった。壁越しに聞こえていた声の正体が、そこにいた。
幹部の視線は私に突き刺さる。「やれ」と命じているのがはっきりと伝わった。信者たちも固唾をのんでこちらを見ている。
息が詰まるほどの沈黙のなかで、私は立ち尽くした。身体は硬直し、動くことができなかった。
そして……私はやらなかった。
次の瞬間、幹部の顔に露骨な失望と怒気が浮かび、誰かが私の腕を乱暴に掴んだ。油に濡れた床で足を取られ、暗闇に押し込まれたところまでは覚えている。
そこから先の記憶は、断片的にしか残っていない。
目を閉じると、あの子の声がまだ耳にこびりついている。油の匂い、炎の揺らぎ、そして笑い声。
――私はやっていない。だが、やらなかったことがどういう意味を持つのか、それは今でも分からない。
その夜のあと、私はしばらく高熱を出し、夢とも幻覚ともつかない光景にうなされ続けた。誓約だとか呪いだとか、当時の彼らが口にしていた言葉が現実味を帯び、文章にしようとすると頭痛が襲ってくる。何年も経った今でさえ、筆を執るたび指先が震える。
つい最近も、あの新興宗教に関するニュースを見た。再び世間に姿を現しつつあるらしい。私は再び書き残さなければと思い、この記録を綴った。
ただ、どこまで耐えられるかは分からない。なぜなら――あの時、油に濡れた床に転げ落ちた瞬間、私自身が知らぬうちに誓いを立てさせられたのかもしれないからだ。
私はまだ生きている。だが、いつまで保てるのかは分からない。
繰り返すが、私はやっていない。……絶対に。
[出典:895 :本当にあった怖い名無し:2019/08/18(日) 15:39:24.82 ID:RrUi4Cbx0.net]