俺には霊感なんてものはないと思っている。
少なくとも、自分が何かを見た記憶は一度もない。
だが両親は、俺が二歳のときにそのおかげで命拾いしたと、今でも親戚中に吹聴して回っている。
その日、俺たちは内陸の県から隣の海沿いの県へ小旅行に出ていたらしい。広い敷地を持つ某有名神社が目当てで、午前中から人混みをかき分け歩き回った両親は、昼にはもうぐったりしていたそうだ。
昼食を取ろうにも周囲の店はどこも満席で、仕方なく人通りの少ない脇道を抜け、小さな漁村にたどり着いた。
そこは、観光地の喧噪とは別世界のような静けさで、年季の入った海鮮料理屋が肩を並べていた。観光客の姿はまばらで、客の大半は常連らしき年寄りばかり。
俺たちはその中の一軒に入り、海鮮丼を頼んだ。カウンターの向こうで魚をさばく店主の男が、ふと窓の外を指差しながら言った。
「今はあんな感じですけどね、夕方には潮が引いて歩いて行けますよ」
視線の先には、岸壁から五十メートルほど沖合に、厳島神社を思わせる朱塗りの鳥居が立っていた。
隣の席の老人がうれしそうに口を挟んだ。
「ここらじゃあの鳥居が自慢なんだが、観光地の陰になっちまって、あんまり人が来ない」
愛想だけはよく返事をしながらも、両親は話を流して店を後にしたらしい。
有名神社の混雑が落ち着いた頃を見計らい、再びそちらへ戻って散策を終えた夕方、両親は「せっかくだから」とあの漁村へ引き返した。
昼間の店先には、また同じ年寄りたちが集まり、ラジオから流れる音楽と世間話の声が混ざっていた。昼と違ったのは、海の景色だった。
夕日が水平線に沈もうとしており、その光に鳥居が照らされて、まるで写真のように美しかったという。
潮はすっかり引き、海底の砂地が道のように現れ、鳥居まで続いていた。海水はところどころに水たまりのように残り、夕日に反射して黄金色に輝いていた。
父はその光景に感動し、岸壁の石段を降り、鳥居へ歩みかけた。母は俺を抱いたまま鞄からインスタントカメラを探していた。
そのとき、俺は母の袖を握り、降りようとしなかったらしい。
次の瞬間、肺が裂けるほどの悲鳴を上げた。
「キィィィィィィーーーーッ!!!」
息を継ぐ間もなく十秒近く、耳を刺すような音を絞り出し続けたという。
泣き虫ではあったが、その時の声は泣き声というより、本能の絶叫に近かったらしい。
父は驚いて振り返り、慌てて石段を駆け上がってきた。母が俺を抱き直した瞬間、俺はすっと泣き止み、何事もなかったように黙り込んだ。
「……なんやねん」
父が安堵して笑ったその時、足元の異変に気付いた。靴も靴下も、足首から下がびしょ濡れになっていたのだ。
振り返ると、さっきまで干上がっていたはずの砂地はなく、海は真っ黒な水で満たされていた。
潮の匂いではなく、濁った沼のような臭気。
夕日に染まる空と鳥居の赤は変わらないのに、その足元だけが墨を流したように黒く、泡立つ波が岸壁に叩きつけられていた。
父も母も言葉を失った。
「……潮、引いとったよな」
「引いとった……さっきまで」
父は自分の勘違いだと思おうとしたが、母も干潮を見ていた。説明のしようがない。
とにかく濡れた靴を替えようと、昼間の海鮮丼屋に向かった。
だが店に近付くと、昼間の賑やかさは跡形もなく消えていた。
人影はなく、声がすると思えば、それはラジオの音だった。
不意に、父の視界の端でカーテンが揺れた。
見上げると、店の二階の奥に人影があった。昼間見た年寄りたちだ。
表情のない顔で、こちらをじっと見下ろしている。
他の店の二階にも、同じように人影があった。全員が黙って、まるで監視するように視線を注いでいた。昼間、あの鳥居を勧めてきた者たちだ。
その意味を考えるより早く、母が父の背を押した。
我に返った父は俺を抱き上げ、全力で走り出した。背後から視線が追いかけてくる気がした。
あの日の俺は、その叫びの後、何事もなかったという。
母は笑いながら「海が満ちてたことより、あの人たちが全員で見下ろしてたのが一番怖かった」と話していた。
「もしあんたがおらんかったら、お父さんはあのまま海に沈んでたやろな」
……ただ、いくら探しても、その鳥居のある神社は地図にも記録にも見つからない。
そもそも、あれは神社なんかじゃなかったんじゃないか――そう思う。
[出典:331 :本当にあった怖い名無し:2021/05/24(月) 17:10:02.48 ID:K0x39g7g0.net]