あれが見えるようになったのが、いつからなのかは思い出せない。
はっきりと輪郭が浮かぶことはほとんどない。四十九日を迎えるまでのあいだ、亡くなった人は時折、こちら側に薄く残る。その名残が、ふとした瞬間に脳裏へ焼きつく。目で見るというより、内側から感光させられるように、像だけが浮かぶ。
それらはたいてい静かだ。表情もなく、感情もなく、ただ“そこにある”。湿った砂の塊のように、重さだけを残して。
知り合いの父親が急逝した夜、私は薄暗い部屋の隅に立つ影を見た。ステテコ姿の男。顔立ちが妙に印象的だった。ぼんやりしているのに、間違いようがない。
翌日の通夜で、棺の蓋が開いたとき、同じ顔がそこにあった。あの夜の影と寸分違わなかった。私はそれ以上、何も考えなかった。影は、やがて消える。いつもそうだった。
だが、あの夜のものは違った。
学生のころ、親の知り合いの夫婦がいた。歳が近く、私は彼らを「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼んでいた。
ある平日の午後、珍しく家にいるというので訪ねた。しばらくして旦那が帰宅した。手には葬儀場でもらう小さな塩袋を握っていた。
「葬式、行ってたの。彼女の」
その言葉が落ちた直後、玄関の方から何かが這いずる気配がした。
黒かった。
影というより、濃度のある染みのようなものが床を擦る。視界の端で形を保ちきれず、滲みながら動いている。胸の奥がきしみ、呼吸が浅くなる。
「……何か、ついてる」
そう言うのがやっとだった。
旦那は塩を振った。白い粒が床に散る。黒は動きを止めなかった。奥さんが容器ごと広げるように撒いた。それでも消えない。
それは、ただそこにあった。
翌晩、奥さんから電話が入った。「今すぐ来て」
玄関を開けた瞬間、怒声が飛んできた。旦那が奥さんを罵っている。皿の割れる音。壁を叩く鈍い響き。
振り返った旦那の目は、濁っていた。底の見えない水たまりのように光を吸い込んでいる。口は早口で、意味のまとまらない言葉を吐き続ける。
その背後に、あの黒があった。
肩に重なるように、絡みつくように、揺れている。
私が一歩、部屋に踏み入れた瞬間、胸の奥で何かが裂けた感覚があった。黒がわずかに揺らいだ。形が崩れ、旦那の背から離れる。
次の瞬間、彼は糸が切れたように倒れ、そのまま眠った。酒の匂いはなかった。
黒は、消えていなかった。
部屋の隅に寄り、薄く広がっていた。奥さんは何も見ていないようだった。ただ震えていた。
それ以上、私は関わらなかった。
やがて就職で引っ越し、彼らと会うことはなくなった。親は付き合いを続けていたらしい。
ある日、母が言った。
「あの人、ずいぶん痩せたね。骨ばっかりで」
それだけだった。
その夜、私は自室でふと違和感を覚えた。背中側の空気が、わずかに重い。
振り向いたが、何もない。
だが、以前より濃い影が見えるようになった。四十九日を過ぎても消えないものが、混じるようになった。
無害なはずの影の中に、ときどきあの黒と同じ質感がある。
私の部屋の隅で、形を保てずに滲むもの。
耳ではない耳で、何かを聴こうとする。
それが、いつから増えたのかは思い出せない。
塩は、今も机の引き出しにある。
使っていない。
振りかけたところで、届くとは思えないからだ。
最近、鏡を見ると、自分の肩のあたりがわずかに暗い。
光の加減だと思っている。
まだ、そう思えている。
[出典:16 :可愛い奥様:2011/05/19(木) 22:24:20.82 ID:4t9KI6Zi0]