専門学校に入ったばかりの頃、ぼくはひどく孤独だった。
大阪の安アパート、薄い壁、うるさい隣室、コンビニ飯の油臭さ。新しい生活はただ無味で、誰とも目を合わせられないまま、ひと月、ふた月と流れていった。
六月の席替えで、隣になったのがMだった。
細くて、異様に汗っかきで、目の焦点が合っていない。声をかけた瞬間、びくりと肩が揺れたのを覚えてる。顔立ちは妙に整っていて、けれどスネ夫みたいな髪型のせいでバランスが狂っていた。そう、美輪明宏にスネ夫の髪を乗せたら、あんな感じになる。
「アニメ、好き?」
たまたま出したその一言に、Mは過敏に反応した。
「……うん」
それからの彼は、ふいに変わった。いや、殻が割れたという方が正確かもしれない。饒舌になったわけじゃないが、ぼくの話にはよく頷くようになり、彼なりの表現で好きな作品のことを熱心に語るようになった。
最初は「友達ができた」と思った。だけど、それはゆっくりと狂っていた。
Mは、暗かった。いや、深かった。底のない水たまりのような湿度を持っていた。
十歳の従妹に気持ち悪いって言われて泣いた話。三日で辞めたバイトの話。中学時代に給食を食べ損ねてトラウマになった話……会話の八割が、過去の陰鬱な記憶だった。
しかも、救いようがないほど馬鹿だった。
ぼくたちはプログラミングの専門学校に通っていたが、彼は「for文」がまるで理解できなかった。基礎の基礎すら掴めていない。彼の代わりに課題をこなす日々が続いた。気づけば放課後は、毎日のようにMのアパートへ足を運んでいた。
そんなある日、Dが仲間に加わった。
Dは普通だった。身なりも清潔で、話し方も無難。だけど、やけに人当たりが良すぎるところが、どこか信用できなかった。
テスト期間が終わった週末、三人でMの部屋に集まって酒盛りをした。まだ十八だった。夕方からダラダラ飲んで、くだらないアニメの話をして、夜更けには眠気に勝てず、ぼくはその場でうたた寝した。
目が覚めたのは、真夜中。ひどい頭痛と吐き気。DとMは寝ていた。声をかけずに、静かに玄関を出た。
月曜の朝、教室に入るなり、Mがこちらを睨んできた。
「なんで帰った? おれはお前の腰掛けか? 友達のフリしてるだけだろ」
声には怒りというより、憎悪が混じっていた。
その日から、Mとの関係は断ち切れた。席替えを機に、新しい友達もでき、Dとはたまに話したけど、Mと交わす言葉は一切なかった。
時間が経った。冬だった。冷たい風がアパートの隙間を吹き抜ける季節。
その日、唐突にMが話しかけてきた。
「なぁ、制作課題が進まないんだ。放課後、家に来てくれないか?」
迷ったが、断れなかった。
もしかしたら、関係を修復しようとしているのかもしれない。そんな希望を勝手に抱いて、ぼくは彼のアパートへ向かった。
以前と同じ部屋、同じコタツ、同じ空気。
Mは黙ってパソコンを立ち上げ、何度教えても理解できないコードに首を傾げ続けていた。時計の針が何周もしたころ、Mが立ち上がった。
「疲れただろ?酎ハイあるから」
ぼくは酒が飲めない。でも、Mはそれを知ってるはずだった。返事を待たず、彼は台所へ。
パソコンの画面を見つめていたぼくの前に、Mが戻ってきた。
その手には、包丁があった。
無言で立ち尽くすその姿を、ぼくは現実だと認識できなかった。
全身が固まり、冷たい汗が背中を伝った。
「どしたん?」
口から出た声は、なぜかいつも通りだった。変に落ち着いていた。
Mの肩が震えていた。包丁を握る手は汗で濡れ、刃先が光を反射して揺れていた。
「……先週末、樹海に行ったんだ」
「電車で。首を吊ろうと思った。でも、できなかった。怖くてさ」
「昨日はこれで手首を切ろうとした。でも、できなかった」
涙なのか汗なのか、顔が濡れていた。
「おれ、何もできない。死ぬことすらできない。……一緒に死なない?」
ああ、来た。
何かが決壊した。視界が妙に鮮明になった。目の前の現実が、映画のようにフィルム越しに感じられた。
返事を間違えたら、死ぬ。確信した。
けれど、なぜか口から出たのは、こんな言葉だった。
「うーん、オレもうちょい生きようかな」
Mは、しばらく黙っていた。何かを噛み締めるように。
それから、ゆっくりと踵を返し、包丁を台所に戻して、代わりに酎ハイを持って戻ってきた。
何もなかったかのように、勉強を再開した。
一時間ほどかけて課題を終え、ぼくはそのまま帰った。
翌日から、Mは学校に来なくなった。連絡も取れなくなった。退学したと、教師が言っていた。
……あれから十年が経つ。
たまに思い出す。あのとき、あの部屋で「一緒に死のう」と言われたあの瞬間。
「うん」と言っていたら、包丁がぼくに向けて振り下ろされたのだろうか。
いや、違う。そうじゃない。
あれはたぶん、Mなりの、最後の繋がりだったんじゃないか。
誰かと死ぬことでしか、自分を肯定できないような、深い、深い絶望。
Mは今、どこで何をしているんだろう。
まさか、まだ……あの部屋に?
[出典:487 :本当にあった怖い名無し:2021/02/16(火) 23:45:40.68 ID:YMMXEQIc0.net]