専門学校に入った春、ぼくは大阪の古い安アパートで暮らしていた。
壁は薄く、隣の咳払いまで聞こえる。油の匂いが染みついたコンビニ飯と、湿った畳の臭い。新生活は期待よりも先に、孤独をよこした。誰とも目を合わせず、ただ出席して帰る日々が続いた。
六月の席替えで、隣に座ったのがMだった。
細い。汗をかきすぎる。目の焦点が合わない。声をかけた瞬間、肩が小さく跳ねた。顔立ちは整っているのに、妙に古臭い髪型のせいで印象が歪んでいる。
「アニメ、好き?」
思いつきで投げた一言に、Mは食いついた。
「……うん」
そこから、彼は変わった。饒舌ではない。ただ、ぼくの言葉に過剰に反応するようになった。頷き、否定せず、食い下がらない。けれど、距離だけはじわじわと詰めてくる。
話題はすぐに、過去へ向かった。
十歳の従妹に気持ち悪いと言われて泣いたこと。三日で辞めたバイト。中学時代、給食を食べ損ねたまま教室で笑われたこと。救いのない記憶を、淡々と並べる。感情は薄いのに、内容だけが重い。
ぼくらはプログラミングの専門学校に通っていた。だがMは、基礎のfor文すら理解できなかった。説明しても、数分後には最初に戻る。気づけば放課後は毎日、Mのアパートで課題を代わりに片付けていた。
いつの間にか、ぼくは彼の生活の一部になっていた。
テスト明けの週末、同級生のDも交えて三人でMの部屋に集まった。夕方から酒を飲み、夜中にはそのまま寝落ちした。
目が覚めたのは深夜だった。ひどい頭痛と吐き気。二人は寝ている。ぼくは何も言わずに帰った。
月曜の朝、教室に入るなり、Mが睨んできた。
「なんで帰った? おれはお前の腰掛けか?」
怒鳴りはしなかった。低い声で、はっきりと言った。その日を境に、会話は途絶えた。
冬になった。
ある日、Mが話しかけてきた。
「制作課題が進まない。放課後、家に来てくれ」
断れなかった。修復の機会かもしれないと思った。
部屋は以前と同じだった。こたつ、散らかったコード、湿った空気。何度教えても理解できない画面を前に、Mは黙っていた。
数時間後、Mが立ち上がった。
「酎ハイあるから」
ぼくは酒が飲めない。それを彼は知っている。
振り返ったMの手には、包丁があった。
立ち尽くす。肩が震えている。刃先が蛍光灯を拾って白く光る。
「……先週、樹海に行った」
「首を吊ろうとした。でもできなかった」
「昨日はこれで手首を切ろうとした。でも、できなかった」
刃を握る手が汗で滑っている。
「おれ、何もできない。死ぬことすらできない」
「……一緒に死なない?」
部屋の空気が止まった。
返事を間違えれば終わる。そう理解したのに、口から出たのは違う言葉だった。
「オレ、もう少し生きる」
Mはしばらく動かなかった。やがて包丁を台所に戻し、酎ハイを持って戻ってきた。
何もなかったように、画面を見つめる。ぼくはコードを打ち込み、課題を終わらせ、帰った。
翌日から、Mは来なくなった。退学したとだけ聞いた。
十年が経った。
あの夜のことを思い出すたび、違和感が残る。
包丁を持っていたのは、本当にMだったのか。
あのとき、「一緒に死ぬ」と言っていたのは、どちらだったのか。
冬の夜、アパートの隙間風が鳴るたび、あの部屋の匂いを思い出す。
湿った畳と、冷えた金属の匂い。
そして、返事を待つ沈黙。
いまも、ときどき夢に見る。
包丁を持って立っているのは、いつもぼくだ。
[出典:487 :本当にあった怖い名無し:2021/02/16(火) 23:45:40.68 ID:YMMXEQIc0.net]