かつての同僚から聞いた話だ。
彼は十数年前まで、都心から少し離れた埋立地にある「水路」を深夜に漕ぎ進める、非合法な深夜カヤックに没頭していたという。 複雑に入り組んだ工業地帯の運河は、昼間こそ無機質な物流の動脈だが、深夜には静寂と巨大な影が支配する異空間へと変貌する。
彼はそこを自作の細い艇で疾走し、タイムを競う「ナイト・パドラー」の一員だった。しかし、ある夜の出来事を境に、彼は愛艇を処分し、水辺に近づくことさえ拒むようになった。
その舞台は、通称「鉄の回廊」と呼ばれる巨大な化学プラントに囲まれた水域だ。入り組んだゲートや橋脚が連続し、熟練者でなければ転覆や衝突を免れない難所として知られていた。深夜には警備の目も薄れ、彼のようなスリルを求める者たちが影のように集まっては、闇に紛れてパドルを回していた。
事故が多発する場所でもあった。急な潮位の変化や、水面下の障害物に接触して帰らぬ人となった者も少なくない。そのため「水面から手が伸びる」「消えたはずのボートと並走した」といった類の話は、パドラーたちの間で一種の儀式的な噂として共有されていた。
その夜は、季節外れの濃い霧が水面を覆っていた。視界は最悪だったが、彼はむしろ高揚していた。重く湿った空気は音を吸い込み、水面を滑る感覚だけが研ぎ澄まされる。霧のおかげで自分の航跡さえ見えないような夜こそ、最も深い没入感を得られるからだ。
彼はターミナルから最終ゲートまでの区間で、自己記録を更新しようとしていた。迷路のような橋脚の間を、吸い付くようなパドリングで抜けていく。人影もなく、自分の吐息と水切り音だけが響く完璧な孤独。その夜、彼はかつてない速度でゴール地点である古い貯木場へと滑り込んだ。
タイムを確認し、息を整えながら艇を岸壁に寄せたときだ。 前方の腐りかけた浮桟橋の上に、人影が立っているのが見えた。 最初は、同じように夜の静寂を愛する同好の士か、あるいは夜釣りの客だろうと思った。こんな霧の中で、ライトも持たずに立っているのは物好きにもほどがある。
だが、その影に近づくにつれて、彼は言いようのない違和感に襲われた。 それは、場違いなほど仕立ての良い、だが酷く汚れ、泥に塗れた冬物のコートを着た男だった。男は傘も持たず、じっと動かずに水面を見つめている。 霧に濡れたその背中からは、生気というものが一切感じられなかった。
関わりたくない――。 直感的にそう感じた彼は、合流するはずだった仲間を待たず、すぐに艇を反転させた。とにかくこの場を離れ、明るい通りに繋がる運河へと戻ろうと、必死にパドルを漕ぎ出した。
背後を振り返ると、遠くに一点の明かりが見えた。仲間の艇のライトだろう。彼は少し安堵し、合図を送るつもりでパドルを大きく振ったが、そのライトは尋常ではない速度で接近してきた。 さらに奇妙なことに、その光は水面を滑るのではなく、水面下数センチの場所から放たれているように見えた。
「なんだ、あれは」 混乱した彼は、全力で加速した。水路を曲がり、入り組んだ橋脚の間を縫うように逃げた。 しかし、次のカーブを曲がろうとした瞬間、視界の先に再び「あの男」が現れた。 先ほど数キロ先の貯木場にいたはずの、泥まみれのコートを着た男だ。男は狭い管理通路の上に立ち、無機質な眼差しで彼を見下ろしていた。
ありえない。 パニックに陥った彼は、回避しようとしてパドリングを誤り、艇は勢いよくコンクリートの護岸に激突した。 その直後、背後から迫っていたはずの「光」が、衝突音も立てずに彼の艇を透過し、そのまま壁の向こう側へと消えていくのを彼は見た。
衝撃で艇から投げ出され、冷たい水の中に沈みながら、彼は朦朧とする意識の中で確信した。 耳元で、カサカサと乾いた音がしたのだ。 「惜しいなあ……まだ、乾いてないのか」 それは、ひび割れた男の声だった。そこで彼の記憶は途切れている。
数時間後、彼は捜索に来た仲間に救助され、病院へと担ぎ込まれた。 全身打撲と肋骨の骨折、そして低体温症。素人目にも重傷だった。しかし、当直の医師が下した診断は、驚くべきものだった。
「ただの軽い『日焼け』ですね。水分を摂って休んでください」 深夜の濃霧の中にいた彼が、日焼けなどするはずがない。激痛に震える彼を、医師は半ば強引に退院させようとした。
翌日、彼の変わり果てた姿を見た兄が激怒し、別の病院へ連れていくとともに、最初の医師に抗議の電話を入れた。すると、電話口の医師はひどく困惑した様子でこう漏らしたという。
「……おかしいですね。なぜあんな診断をしたのか、自分でも分からないんです。ただ、昨夜付き添われていた『お父様』があまりに熱心に、『この子は日焼けが酷いだけなんです』と仰るもので。その言葉を聞いているうちに、それ以外の病名が思い浮かばなくなってしまったんです。そのお父様、診断結果を聞いて、本当に嬉しそうに笑っていらしたんですよ」
彼の父は、彼が幼い頃に海難事故で亡くなっている。 その後、入院した病院の受付には、連日のように「父親」と名乗るコート姿の男が面会に訪れていたという。 だが、彼がその男と面会することは二度となかった。
彼は今、内陸の街で静かに暮らしている。 どんなに暑い日でも、彼は決して半袖を着ない。あの夜から、彼の肌にはどれほど治療しても消えない、泥を塗りつけたような奇妙な黒い痣が、手足にびっしりと浮き出ているからだ。
(了)