上京してまだ間もない頃だった。
街は私を受け入れているようで、どこか突き放してもいた。見知らぬ人々の吐く息、排気ガスの匂い、夜遅くまで明かりの消えない雑居ビル。すべてが知らない音と色で、少し楽しく、少し息苦しかった。
その日の午後から体調が崩れた。最初は風邪だと思った。よくあるやつ。熱を出して、汗をかいて、三日も寝れば治る――そう思っていた。
けれど違った。立ち上がろうとすると視界が暗くなり、足が沈む。喉は砂を噛んだようにひび割れ、指先から骨の奥まで痛みが染みこんでいた。
二日間、水すらまともに飲めず、ぼんやりと天井を見ていた。耳は自分の心臓の音ばかり拾い、世界の音は遠くの泡のようにかすれていた。
ガチャガチャ、と玄関の方から金属が擦れる音がした。
反射的に目を動かす。カギの回る音。
ありえない――そう思うより早く、ドアが開き、足音が近づいてきた。
それは母だった。
あまりにも当たり前の顔をして立っているから、疑うことすら忘れた。
「熱があるのね?どうしたの」
「風邪、ひいたみたい」
「食べてないんでしょ」
「……うん」
「病院へ行きましょう」
私はうなずこうとして、ふと違和感を覚えた。どうして母がここにいる?連絡もしていないのに。
そういえば電話が鳴っていた時もあった。取ることもできなかったけど……あれは母だったのかもしれない。
「ねえ」
母は少し寂しそうに笑った。
次の言葉を待たずに、意識が水底へ落ちた。
目を開けたら病院の天井だった。
「気づいたか?」と声がして、顔を向けると父がいた。
「お前、肺炎で死にかけてたんだ」
「え……」
「一週間も寝込んでたぞ」
母のことを尋ねると、父は「風邪ひいて寝てる」とだけ言った。
不安はあったが、目を閉じれば眠気に飲まれる。
夢の中で、母は卵酒を作っていた。昔、私が熱を出すたびに作ってくれたやつだ。湯気の向こうの笑顔は、今も変わらない。
「あなたは昔からよく風邪を引いて……」
「お母さん……」
自分の声で目が覚めた。
そこにいたのは妹だった。
目が少し赤い。
「どしたん?お父さんは?」
「……お母さん、死んだんよ。交通事故で」
言葉が意味を成さなかった。音だけが頭の中を転がった。
「いつ……」ようやく出せたのはそれだけ。
父の話を聞いた。
母は、亡くなった後、父の夢枕に立ち、私が危険な状態であることを告げた。
東京と実家の距離は千キロ。すぐには来られない。
父は目覚めてすぐ警察に連絡し、不動産屋にカギを開けさせた。私は床に倒れていて、そのまま救急搬送されたらしい。
妹は「お母さんがこんなことになって……姉ちゃんまでって……」と泣いた。
父は「お母さんはお前を連れて行かんと言ってた」と静かに言った。
そこで私は泣き崩れた。
泣かないと決めていたのに、嗚咽が勝手に体を揺らした。
母は私を助けるためだけに、死者の場所から戻ってきたのか。
どんなに苦しかったろう。
私だってもっと親孝行したかった。
なぜ、一緒に連れて行ってくれなかったのか。
一緒なら、こんな思いはしなくて済んだのに。
でも、母はそうは望まなかったのだろう。
もう会えない。
涙は止まらない。
だけど私は生きる。
母のように、我が子を守るためなら何をしてでも動く母親になる。
ありがとう、お母さん。
今も、ここにいてくれると信じている。
[出典:837 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/09/25 21:14]