今でもあの国の空気を思い出すと、体の芯がざわめく。
旦那の転勤で暮らしたミャンマーの町は、乾いた大地に強烈な陽射しが落ちるはずなのに、家の裏へ回ると湿った土の匂いが鼻を刺した。裏庭の奥には旧日本軍が現地の人々を労働させた施設跡が残っていた。崩れた石と瓦礫に蔦が絡み、昼間でもそこだけ影が冷えている。陽の角度が変わっても、温度だけが置き去りになったみたいに、ひんやりしたままだった。
入居のとき、不動産の仲介人が書類の束を机に置き、声を落とした。
「裏の史跡には絶対に近づかないでください」
史跡だから立ち入り禁止という硬い言い方ではない。生活の注意としての忠告だった。彼は視線を合わせず、笑いもしなかった。私は軽く頷いた。大げさだと思ったし、誰かの迷信をそのまま信じ込む性格でもない。けれど言葉の響きだけが、胸の奥に引っかかったまま残った。
暮らしが始まってしばらくは、何事もなかった。市場は甘ったるい果物の匂いと魚の生臭さが混ざり、道端の屋台は油の煙を上げ、遠くで寺院の鐘が鈍く鳴る。娘はすぐ友達を作り、旦那は新しい職場の話を明るくする。私はその雑多な日常に自分を埋めて、裏庭のことを考えないようにした。
でも、洗濯物を干すときだけ、いつも背中が落ち着かなかった。見られているというより、数を数えられているような感じだ。視線が刺さるのではなく、皮膚の下をなぞられる。振り返っても、そこには蔦と石と、湿った影しかない。それなのに肩が固まり、息が浅くなった。
昼寝から目覚めた午後、汗が背中にまとわりつく。窓から裏庭の影を覗くたび、胸の奥で「行ってはいけない」という声がかすかに響いた。その一方で「本当は何もない場所なんじゃないか」という反発心も芽生える。忠告を無闇に信じ込むのは自分らしくない。そう思いながら、足は決して向かわなかった。向かう理由がないからではない。向かう理由が、いつの間にか用意されている気がして、嫌だった。
旦那は仕事で帰りが遅い。娘は昼寝と遊びに夢中で、私は広い家でぽつりと取り残される。静けさが増すほど、裏庭の影は濃くなった。聞こえないはずの囁きが耳を掠めたような気がして、台所の水道をわざと強くひねって音で打ち消した。
ある夜、停電が起きた。部屋の灯りがふっと落ち、冷たい暗闇が床から立ち上がった。月明かりだけが窓枠を白くして、屋内の輪郭を薄く浮かせている。背中の汗が急に冷たくなった。庭の方から吹き込む湿った風に混じって、舌打ちみたいな小さな音が届いた。私は娘を抱き寄せ、窓を閉めた。ガラス越しに見える蔦の揺れが、誰かの手首の動きに見えた。
それからというもの、理由もないのに階段を上がる夢を繰り返した。何段あるのか分からない石段を、黙って、ただ登る。段差が足裏に残り、踏むたびにぬるい泥が靴底に貼りつく。頂上は見えない。途中でふっと背中が軽くなり、後ろへ倒れそうになったところで目が覚める。汗に濡れた掌でシーツを握りしめて起き上がっても、足元にまだ段差の感覚が残っている。
娘の遊ぶ声に混じって、別の声が重なるような錯覚もあった。耳を澄ませると消えるのに、意識を逸らした瞬間だけ、言葉にならない音が届く。私は気のせいだと言い聞かせた。ここは異国で、環境も違う。疲れているだけだ。そう思えば済むはずだった。
その日、裏庭の方から声がした。
「おいで」
耳慣れないはずの響きなのに、不思議と違和感がない。日本語ともビルマ語とも取れる、どちらでもない抑揚だった。私は洗濯物をその場に落としたまま、庭を抜けた。娘は室内で遊んでいる。誰かが呼んだのなら、確かめる必要がある。そう考えた気がする。でも、その考えはあとから貼り付けたものだ。体が先に動いていた。
史跡の敷地へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。湿りが濃く、匂いが近い。地面はしっとりと柔らかく、踏みしめるたび靴底に泥が貼りついた。蔦に覆われた石段が、影の中から姿を現した。誰に教えられたわけでもないのに、ここを登らなければならない、と体の奥が知っていた。
一段、二段。石は冷たいのに、足首の内側だけ熱い。三段、四段。息が乱れない。心臓の鼓動は妙にゆっくりで、代わりに耳の奥の膜が薄く震えている。背中をなぞる風は、生き物の舌のようだった。首筋に細い息がかかる。私は恐怖を感じているのに、足は確かに前へ進んでいた。
途中でふっと、背後の気配が増えた。誰かが段を一つ飛ばして追いついてきたような圧がある。振り返ろうとしても首が動かない。登り続けるしかない。額の汗は冷たく、こめかみの血管が静かに脈打っている。
ある高さに達したとき、背中が軽くなった。落ちる、と理解するより先に、体が後ろへ引かれた。足が段から浮き、空がぐらりと傾く。瞬間「ハッ」と息が漏れた。視界の端で蔦がぶわりと揺れ、世界がようやく現実に戻った。私は反射的に踏みとどまった。膝が笑い、手すりのない空間に指が泳ぐ。倒れなかったことが、奇跡みたいに感じた。
その場でしばらく固まっていた。さっきまでの静けさが嘘のように、耳鳴りだけが大きい。私はゆっくりと石段を降りた。足取りは震え、膝から力が抜けそうだった。降りるほどに空気が薄くなる。湿りがほどけていく。庭に戻ったとき、日差しが肌に刺さった。あまりに普通で、逆に怖かった。
娘が声を上げて駆け寄ってきた。
「かあちゃーん」
弾む声が耳に届いた瞬間、私は安堵した。ところが次の瞬間、自分でも信じられない動作をした。伸ばした足先で娘をすっと払うようにして、転ばせたのだ。乱暴に蹴ったわけではない。歩きながら何かを避けるみたいに自然に、足が出た。娘の小さな体が前に倒れ、乾いた音が響いた。尖った石が頭に当たったのが見えた。
血の色は意外なほど明るく、地面に広がるさまは絵の具をこぼしたみたいだった。喉の奥が凍るのを感じながら、私はすぐに娘を抱き上げた。顔は血で濡れ、頭皮の裂け目から温かい液体が指を伝って流れ落ちた。娘は遅れて泣き声を上げた。その泣き声が現実の音としてやっと耳に入った。
病院に駆け込むと、医師の手つきは慣れていた。縫合は五針で済んだ。意識ははっきりしていて、娘は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら私の服を掴んだ。私は謝り続けた。何度も何度も。どうして転ばせたのか、答えられる言葉が一つもないまま。
家に戻ってからも、あの瞬間の足の感触が消えなかった。娘の頭に当たった石の硬さが、足先に残っている。私は何度も靴を洗い、爪の先まで擦った。それでも、足は自分のものではないみたいに感じた。
夜になると、石段の感触が足裏に蘇る。夢の中で何度も同じ場面を繰り返す。登り切って、後ろに引かれる寸前で目が覚める。目覚めたはずなのに、布団の中で足を動かすと、床が段差になっている気がする。私は電気を点け、床を見て、何もないことを確かめて、また消して眠る。その繰り返しだった。
帰国してから、私は教師の仕事に戻った。日常は日本の速度で回り始めたが、あの湿った匂いだけが、ふとした瞬間に戻ってくる。乾いた教室の空気に混じって、泥の冷たさが鼻の奥に刺さることがあった。
ある日、授業の合間に生徒が怪談の話を持ち出した。私は軽い体験談のつもりで、ミャンマーでの出来事を話した。裏庭の史跡、石段の夢、停電の夜。話している途中、自分の声が教室にやけに響くのを感じた。天井が高くなったみたいに、言葉が反響して戻ってくる。
話し終えた直後、教室の空気が変わった。三十人のうち十人ほどが、次々と顔を赤くして額に手を当てた。気分が悪いと言い出し、保健室へ向かう子が続いた。熱を測ると、普段は出ない数字が出ている。結局、その日のうちに何人も早退した。
偶然だと思った。風邪が流行っていたのかもしれない。私は気にしないふりをした。けれど、別の学校で同じ話をしたときも、同じことが起きた。七人か八人が急に体調を崩して帰っていった。場所も子どもも違うのに、結果だけが繰り返された。
それ以来、私はその話をしないようにした。けれど雑談の流れで、つい口が滑ることがある。言葉は舌の上を勝手に転がり出し、ときに抑揚が自分のものではない響きに変わる。話しながら、喉の奥が冷えていくのが分かる。教室の窓は閉まっているのに、背中だけ湿る。生徒の中から、誰かが額を押さえて俯く。別の子が咳をし、視線が泳ぐ。
私は途中で止めようとする。止めようとすると、余計に言葉が出る。句読点の場所も、自分で決めていないみたいに、声が勝手に進む。口が、私の許可を待たない。
今日もそうだ。私はこの話をしている。生徒のひとりが額に手を当て、顔を赤くしているのが見える。もう一人が机に突っ伏した。教室の隅の時計の秒針が、いつもより大きく聞こえる。
私は声を止められない。喉の奥で、湿った匂いがする。
「おいで」
誰の声か分からない。私の声なのに、私のものではない。
話し終えたあと、私はいつも足元を見る。床は平らで、石段なんてない。それでも足裏だけが段差を覚えている。踏み出すと、次の一段がそこにある気がする。何かが、私の足を待っている。
いまこの瞬間も、あなたの額が、少し熱くなっていないだろうか。
[出典:854 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.2][新芽]:2025/01/27(月) 12:15:23.43ID:Ri8542ZD0]