これは、忘れたくても忘れられない、わたし自身の体験である。
中学三年の卒業を目前に控えた冬のことだった。校舎の窓から差し込む光はどこか鈍く、吐く息ばかりが白く濃かった。クラス全員で集められたわたしたちは、担任に促されるまま机に白い便箋を広げ、「未来の自分への手紙」を書いたのだ。記憶の中では確かにあのとき、机に肘を突きながら、少しふざけたような気分でペンを走らせていた。便箋は薄く、封筒も安っぽかったけれど、それを皆が抱えて校庭に出た場面は、いまだに脳裏に焼きついている。
校庭の隅に古い桜の木が一本あった。幹に亀裂が走り、ところどころに瘤のような膨らみがあったせいで、子どもの目にはどこか不気味に映っていた。クラス全員でその根元を掘り、缶の箱に詰めた手紙を埋めた。担任が土をかけるスコップの音を、わたしはいまでもはっきり聞こえる気がする。
……それなのに。
それから十数年が経ち、わたしが三十歳になったとき、同窓会が開かれた。居酒屋の座敷に集まった顔ぶれは、見覚えがあるようでいてどこか老け、互いに仕事や家庭の話で盛り上がっていた。そこでふと、わたしは思い出したように切り出した。
「ねえ、あのさ。タイムカプセル、覚えてる? 卒業のときに桜の木の下に埋めたやつ」
その瞬間、座が静まり返った。全員が訝しげに眉を寄せ、口を揃えて言ったのだ。
「はあ? 何それ? そんなのしてないだろ」
笑い飛ばす者もいたし、本気で怪訝そうにする者もいた。だが誰ひとり、わたしの言葉に同意しなかった。記憶違いだとからかわれ、酒の肴にされただけで終わったが、胸の奥に重く澱のようなものが残った。あれほど鮮明に思い出せるのに、どうして他の誰も覚えていないのか。自分が狂ったのかと疑ったほどだ。
年月はさらに過ぎ去り、わたしが四十歳になった年、母校の校舎が増築されることになった。ニュースを耳にして、嫌な予感が背筋を走った。新校舎は、あの桜の木のあった場所に建つという。タイムカプセルは、もはや二度と取り出せなくなる……そう思った矢先のことだった。
工事関係者の手によって、土の中から奇妙な金属箱が掘り出された。連絡を受け、同窓会の名簿を通じてクラスメイトが再び集められた。
信じがたいことに、わたしが三十歳のときに話した「タイムカプセル」の記憶を、皆が急に思い出していたのだ。「そういえば、あのときお前だけが言ってたよな」などと呟きながら、まるで霧が晴れるように、彼らの記憶が繋がっていく光景を見た。胸の内が妙なざわめきでいっぱいになった。
体育館の隅に机が並べられ、担任だった教師が封を切る役目を担った。中から次々と便箋が取り出され、それぞれが笑い交じりに読み上げた。大人になった自分への激励や、幼い夢を綴ったものばかりだった。
だが、ひとりだけ、そこにいない生徒の手紙を担任が広げた瞬間、場の空気が変わった。
その手紙は、二十歳のときに事故で命を落としたYという男子のものだった。便箋に走り書きされた文字は、悪ふざけのようでいて、不気味に的中していた。
「このカプセルはみんなが二十歳になった時、その存在が記憶から消えさるだろう。そして二十年後に再び思い出される。しかし俺は二十歳で死んでいるのだ、イエイ!」
笑いを誘うような軽い調子で書かれていたのに、その場にいた全員が凍りついた。彼の死を知っていたからだ。
わたしの番になった。震える手で封を開けると、そこには見覚えのない文字が並んでいた。
「四十歳の私へ。私は他のみんながカプセルの存在を忘れたとしても、私一人だけは絶対に忘れない。やったね!」
言葉を失った。そんなことを書いた記憶は一切ない。そもそも便箋に何を書いたかさえ思い出せなかったはずなのに。クラスメイトは一様に青ざめ、視線を逸らした。
Yの予言めいた手紙と、わたしの手紙。まるで示し合わせたように呼応している。しかしわたしと彼は当時、それほど親しい仲ではなかった。互いの手紙を知る術もなく、相談した事実もない。
担任はおかしな熱っぽさで呟いた。「これは言霊の力だな。書かれた言葉が現実になったんだ」
その瞬間、背筋を走る寒気を抑えられなかった。
母校の土地には、戦時中に大きな病院があったと聞く。空襲で学徒動員の生徒たちが数十人単位で犠牲になり、今も慰霊碑が建てられている。思い返せば在学中、廊下で誰もいない足音を聞いたり、夜の教室で人影を見たり、得体の知れない体験を幾度もした。わたしだけが異様にそれを感じ取っていた。
――だが、本当の恐怖はその後だった。
集まりが解散した夜、帰宅して机に手紙を置いたとき、気づいてしまったのだ。封筒の裏に書かれた筆跡は、どう見ても自分の字ではなかった。形は似ている。けれど癖が微妙に違い、書き慣れたはずの自分の字ではない。まるで、わたしの筆跡を真似た別の誰かが、便箋に書き込んだようだった。
ぞっとして封筒を裏返したそのとき、背後で何かが笑った。声ではない、風でもない。耳の奥に直接響くような、湿った笑い声だった。
気がつくと、封筒の端に黒い染みが浮かび上がっていた。水ではない、墨のようにじわじわ広がっていく。慌てて目を逸らし、再び見たときには何事もなかったかのように消えていた。
あれから年月が経つ。わたしはいまもその手紙を引き出しの奥にしまっている。触れるたびに胸の奥で何かがざわめく。
一度だけ、封筒の中を確かめようとしたことがある。けれど、便箋は影のように黒ずみ、文字はすべて読めなくなっていた。代わりに、かすかな筆跡が浮かんでいた。
「次は四十年後」
……これはわたしの空想か、それとも本当にそこに刻まれていたのか。もう確かめる勇気はない。
しかし、あの声はいまも時折、夜の耳元で笑う。わたしが忘れないようにと。
[出典:159 :タイムカプセル:2008/02/17(日) 10:55:18 ID:L1LQiSZx0]