あれは、小学六年の夏休みの終わり頃だった。
あの森の名を口にするのも、いまだに躊躇う。角田の森。いかにも何かが潜んでいそうな、湿った響きのその名を。
いつもは森の手前、崖になったところで遊んでいた。飛び降りたり、木のツルにぶら下がってターザンごっこしたり、そんな他愛もない遊びばかり。だが森の中には入らなかった。暗く、じめじめしていて、そこに踏み込む勇気は誰も持っていなかった。
廃屋の存在は知っていた。誰も住んでいない、ボロボロの家。先輩の何人かが肝試しに入ったらしく、得体の知れないものを見たとか言っていたが、噂にすぎないと誰もが思っていた。
その日、勇紀と賢太が角田の森で遊んでいるとき、勇紀が「廃屋に行ってみよう」と言い出したそうだ。怖がりの賢太は当然反対したが、勇紀は聞く耳を持たず、ひとりで森の奥へと消えていった。
数分後、崖の上に残った賢太のもとに、「うわぁぁぁぁぁぁ!」という絶叫とともに勇紀が戻ってきた。全身を震わせ、顔は青ざめ、目はうつろ。だが左の頬だけが赤く腫れ上がっていた。
その日、私と拓未は学校のプールで、彼らの話を聞いた。勇紀によれば、廃屋の前まで行くと、突然七十歳くらいの婆さんが飛び出してきて、手首をつかまれたという。そして、もう一人の爺さんが包丁を持って現れ「坊主、ここで何してる」と呟いたのだと。勇紀は謝り続けたが、婆さんは手を放さず、爺さんが顔を覗き込んできて、次の瞬間、平手で頬を強く叩かれた。
その衝撃で我に返り、勇紀は婆さんの手を振りほどき、崖まで一目散に逃げ帰った。
私はその話を信じた。勇紀が嘘をつけるような性格ではなかったし、賢太が見たあの赤く腫れた頬も、嘘では説明がつかない。けれど、廃屋のすぐ近くで待っていた賢太には、話し声も物音も何ひとつ聞こえなかったというのだ。風が音をさらったのか、それとも、何か別の力が……。
その森へ、二度と近づかないと誓ったのに。一週間ほどして、ダイエーで遊んでいたとき、勇紀がこう言った。
「今度は夜に行こうぜ」
正気の沙汰じゃない。怖くて震えたが、ビビリと思われたくなくて、結局、私は行くと言ってしまった。
夜九時半、サレジオ教会前に集合。賢太は親の許可が下りず不参加。私、拓未、勇紀の三人で角田の森へと向かった。
昼間でも不気味な森が、夜になると別物だった。黒い穴。魔の口。生きてはいけない場所。入った瞬間、背後で何かがピタリと閉じた気がした。
暗闇の中、手探りで進み、やがて廃屋の前にたどり着いた。拓未が懐中電灯をつけ、窓から中を覗く。
「誰もいねぇじゃん」
と、笑った。私は信じられなかった。あんな恐ろしい場所を前にして、恐れのかけらもない。勇紀でさえ動けずにいるというのに。
拓未が引き戸に手をかける。音もなく、するりと開いた。懐中電灯の光が室内を舐める。ほとんど何もないが、奥に小さな机のようなものがあった。花瓶代わりのカップ酒。雑草。中央にはお札が立てかけられていた。
「ジンカ……何だこれ、読めねぇな」
拓未がそう呟いた。私も漢字が苦手で読めなかったが、何か禍々しいものを感じた。
と、その瞬間。
勇紀が無言で、祭壇を蹴り上げた。
ガシャーン、と音を立てて、机と供え物が散らばった。
「仕返しだよ」
勇紀がそう呟いた瞬間、空気が変わった。
「ゴォォォォォォォ……」
言葉にできない音が、耳のすぐそばで鳴った。低く、重く、耳の奥にこびりつく、不快な音。誰かの声にも思える。人の声が、地の底から這い出してくるような。
私は廃屋から飛び出した。何も見ていないのに、見てはいけないものが背後にいる気配。足がもつれ、木の根につまずきながら、森を、命からがら駆け抜けた。
サレジオに着いた頃には、自転車に飛び乗る手も震えていた。何も言わず、ただ逃げるように家へ帰った。
あの夜、母親の布団に潜り込んだとき、私は何も言えなかった。言ってはならない、口にしたら連れていかれる、そんな確信があった。
翌朝、拓未から電話があった。勇紀も一緒に来て、あの夜の話をした。三人とも、あの「音」を聞いていた。拓未は廃屋を出るとき、何かに足首をつかまれたとすら言った。
私は勇紀に訊いた。「どうして祭壇を蹴ったんだ」と。
勇紀はまた、同じ言葉を繰り返した。
「仕返ししただけだよ」
それ以降、角田の森には誰も近づかなかった。
中学に入り、時が流れ、やがて私たちは疎遠になった。
高校二年の夏。あの電話が来るまでは。
「……角田の森のことで……良平君にお話ししたいことが……」
東京大学の教授を名乗る男の声が、留守電に残っていた。番号は聞き取れず、二度と連絡もなかった。
その翌年、賢太に偶然再会した。私と同じような電話が、彼の家にもかかっていたという。あれは本当に、偶然なのか。
さらに数年後。勇紀が死んだ。自殺だった。
彼の部屋には、何十冊ものノートが残されていた。すべてに、びっしりと書かれた名前。
『仁科』
あの夜、廃屋の祭壇に立てられていたお札の文字……拓未が「ジンカ」と読んだ、あの文字……。
あれは、仁科と書かれていたのだ。
私はあの夜を後悔している。祭壇を壊すのを止められなかったことを。
そして今、こうしてまた「角田の森」のことを思い出している。
語ってはならないことを、すべて語ってしまったかもしれない。
……誰かが、また電話をかけてくるような気がしている。
(了)