これは警備員のアルバイトをしていた頃、職場の先輩から聞いた話だ。
都内にあるSデパートは、外から見ると普通の老舗百貨店だが、中に入ると妙に縦に長い構造をしている。フロア同士をつなぐ導線が複雑で、非常階段や防火シャッターの位置も多く、新人が一人前になるまでにはかなり時間がかかる職場だった。
自分が入ったばかりの頃は、必ず先輩と二人一組で夜間巡回を行った。エレベーターの停止確認、防火扉の施錠状態、火元の有無、警報盤のランプチェック。覚えることは山ほどあり、メモを取っても追いつかない。深夜の百貨店は照明が落とされ、商品棚やマネキンの影が伸びて、昼間とは別の建物のように感じられた。
ある夜、婦人服売り場を巡回していたときのことだ。フロアの奥、非常階段の手前に設置されている防火シャッターの脇で、先輩が足を止めた。警報器のボックスを指で軽く叩きながら、何でもない口調でこう言った。
「この警報、死んでるからな」
冗談なのかと思い、「故障ですか」と聞き返したが、先輩は首を横に振っただけだった。そのまま歩き出し、理由は何も説明しない。新人の自分は深く考えることもなく、巡回ルートの続きを覚えることに必死だった。
その警報器の近くには女子トイレがある。夜間は人がいない分、不審者や酔客が紛れ込みやすい場所なので、決まりで念入りに確認することになっていた。個室、用具入れ、洗面台の下まで目を配り、異常なしを確認する。そのときは、特に変わった様子はなかった。
巡回を終えて待機室に戻ったのは深夜三時を過ぎていた。他の警備員は仮眠中で、蛍光灯の白い光の下には自分と先輩の二人だけがいた。装備を外し、椅子に腰を下ろした途端、先輩が低い声で言った。
「さっきの警報のこと、気になってるだろ」
否定しきれずに黙っていると、先輩は天井を見上げるようにして続けた。
「あそこ、昔からおかしいんだ。だから殺してある」
殺してある、という言い方が妙に引っかかった。無効化とか停止ではなく、殺す。機械に対して使う言葉じゃない。その違和感をうまく言葉にできないまま、先輩の話を聞いていた。
先輩が言うには、問題の警報器は何度交換しても、夜中になると決まって発報するらしい。原因は不明で、配線も基盤も異常なし。管理会社も首をかしげるばかりで、最終的には警報としての役割を外され、形だけ残されることになったという。
「鳴らない方が、まだマシだったんだよ」
そう言って、先輩は一瞬だけこちらを見た。その目が妙に濁っていて、冗談の空気ではないことだけは伝わってきた。
その後、先輩は具体的な出来事を多くは語らなかった。ただ、昔そこを担当していた警備員が、夜の巡回を極端に嫌がるようになったこと。誰もいないはずのフロアで、無線が通じなくなることがあったこと。女子トイレの前だけ、なぜか足音が吸い込まれるように消えること。どれも断片的で、理由は語られなかった。
自分は思い切って聞いてみた。「じゃあ、今はもう何も起きないんですか」
その問いに、先輩はすぐには答えなかった。しばらく沈黙したあと、ぽつりと漏らすように言った。
「起きてないんじゃない。見なくなっただけだ」
先輩は、その夜の巡回で自分に見せなかったものがあると言った。女子トイレの確認中、鏡に視線を移したとき、洗面台の背後にある用具入れが映っていた。その扉の表面に、いくつもの小さな跡が浮かんでいたらしい。
手の跡だった。
指の数が合わないもの、掌の形が歪んだもの、まるで内側から押し当てられたように、鏡の向こう側で蠢いていたという。拭いても消えず、目を離すと位置が変わる。それらが、ゆっくりと鏡の中央に集まり、映り込んだ先輩自身の顔に向かって伸びてきた。
「俺が何をしたと思う」
先輩は笑いもしなかった。
「何もしなかった。ただ、見なかったことにした」
その後、先輩は無線で異常なしを報告し、巡回を終えた。警報は鳴らなかった。鏡をもう一度見る勇気はなかったという。
それ以来、婦人服売り場のマネキンは細かく配置換えされ、瞳の光沢が抑えられたものに変えられた。女子トイレの用具入れには鍵が付けられ、問題の警報器は完全に無効化されたまま残されている。
自分はその話を聞いたあと、先輩と同じルートを何度も巡回したが、奇妙なものを見たことは一度もない。警報が鳴ることもなかった。ただ、あの女子トイレの前だけは、理由をつけて通らないようにしていた。
先輩が最後に言った言葉が、今も耳に残っている。
「警報ってのはな、危険を知らせるもんじゃない。呼ばれる前に、気づかせるためのもんなんだ」
それが何に対してなのか、自分はいまだに知らないし、知りたいとも思わない。誰も確かめないまま、あの警報は今日も死んだまま、非常階段の横に取り付けられている。
[出典:214 名前:あなたのうしろに名無しさんが…… 投稿日:2001/02/17(土) 00:30]