化学を専攻する理系の人間として、占いやオカルトに興味はあっても、それを現実と結びつけたことはなかった。
再現性のない現象は、観測者の主観に依存する。そう考えることで、世界は安全に保たれていた。
大学のゼミに、菊地という同級生がいた。東北の山間部出身で、口数は少なく、感情を表に出さない。話し方は穏やかだが、どこか距離の測りにくい人だった。彼女の部屋を訪ねたとき、整然としたモノトーンの室内に、不釣り合いな大きさのお札が一枚だけ掛けられていたのを覚えている。理由を聞くと、必要なものだと言われた。それ以上の説明はなかった。
彼女は、当たるとも外れるとも言えない占いをすることがあった。木に触れたり、虫に向かって話しかけたりする姿を見たこともある。理系の学科には変わった人間が多い。そういう括りで処理できる範囲だと思っていた。
去年の夏休み、ゼミの仲間四人で、菊地の母方の実家に遊びに行った。最寄り駅から車で三十分以上、山道を進んだ先の村だった。家の裏には低い山が迫り、途中に祠と大きな木があった。菊地はそれを指して、山を守っていると言った。空気は夏とは思えないほど冷えていた。
山を下る途中、細い脇道を見つけた。菊地は、その先には行ってはいけないと言った。理由は聞いても教えてくれなかった。田中と佐藤は面白がったが、そのときは引き下がった。
翌日、菊地と自分が買い出しに出ている間に、二人はその道の先へ行っていた。戻ってきた二人は、何もなかったと言った。古い家が一軒あるだけで、拍子抜けしたと笑っていた。
その話を聞いた瞬間、菊地は田中を殴り、続けて佐藤にも手を上げた。怒鳴り声は初めて聞いた。何をしたか分かっているのか、と。祖父母に報告すると、祖父は短く問い返した。その家に入ったのか、と。
その夜、儀式が行われた。理由は説明されなかった。田中と佐藤は奥の座敷に座らされ、菊地は白い着物を羽織り、脇差を手に現れた。祈りの言葉は聞き取れず、最後に畳へ刃を突き立てた音だけが残った。空気が戻らないまま、その場は終わった。
東京に戻ってから、自分に異変が起きた。夜、体が動かなくなる。胸の上に重さを感じ、獣の臭いがした。姿は見えないが、四つ足で踏みしめられている感覚があった。幽霊ではないと直感した。
菊地に相談すると、彼女はお札を渡した。鬼門に置き、粗末にするなと言われた。それを守ると、金縛りは止んだ。理由は聞かなかった。
田中と佐藤は、菊地を避けるようになっていた。お札を渡そうとしたが、拒まれた。怖すぎる、と。菊地は何も言わなかった。
それから、二人の周囲で不幸が続いた。死に方に共通点があることに、気づいてしまったのは後になってからだ。田中は大学を辞め、佐藤は消えた。失踪だと聞かされた。
冬休み、菊地に頼まれて再び村へ行った。祖父は、自分が持ってきたお札を見ると、駄目だったかと呟いた。それ以上は多くを語らなかった。山の役目の話も、途切れ途切れだった。
ただ一つ、祖父が繰り返した言葉がある。山は守られているのではない、見張られているのだと。
帰り際、ふと気になって、あの脇道の方向を振り返った。雪に覆われて何も見えなかったが、確かに、こちらを向いている気配があった。
東京に戻った今も、お札は置いたままだ。金縛りは起きていない。だからといって、終わったとは思えない。
あのとき、なぜ自分だけが外に出ていたのか。なぜ自分だけが、お札を受け取ったのか。
考えないようにしている。考えること自体が、こちらを見返す行為のような気がして。
(了)