『ホラー映画を見に行かないか』と誘われた。彼女は八坂。自称見える人だ。
心霊スポット巡りの帰りに偶然会って、その後同じ大学だと分かり、たまに飯を食う仲になった。ある日、学食に呼ばれて席に着くと、八坂がパンフレットを差し出した。血濡れの雪だるまの絵。上には『クリスマス前にもっと涼しくなりませんか?』。短編が三本。
『○○オブザデッド』
『見るな』
『ツナグ電車』
「由美は、『見に来るな』って言ってたんですけど」
飯野由美。演劇部の友人で、自分も顔見知りだ。八坂はホラーが心底苦手で、こういう場に自分から行くのは珍しい。
「大丈夫か」
「たぶん、大丈夫じゃないと思います」
大丈夫じゃないのに行きたいらしい。理由は聞かない。言い訳が増えるだけだ。
数日後。午後六時、D棟二階の視聴覚室。待ち合わせの学食前に行くと、入り口脇に眼鏡とマスクの八坂が座っていた。
「風邪か」
「変装してたつもりなんです」
伊達眼鏡らしい。服も新しい。由美にバレたくない、と八坂は言った。悲鳴の問題もあるらしい。
「帽子があった方がいいな」
「帽子……ですか」
防寒用に持っていたものを出した。青い目出し帽。穴が三つ。
「こういうのなら、あるけど」
八坂がじっと見る。
「これ、田場さんと初めて会った時の帽子ですよね」
「八つ坂トンネルで」
「あー……」
忘れていた。あの時これを被っていたせいで、八坂は本気で怯えた。今思い出しても、こちらの気遣いのなさが露骨だ。仕舞おうとすると、八坂が止めた。
「……借ります」
ゆっくり頭を入れる。サイズが合わず、目だけが辛うじて出る。強盗が一人できた。
「これは、怖いな」
「はい」
下半分を折り上げ、普通のニット帽みたいにして、眼鏡とマスクで隠す。近づかなければ誰だか分からない。八坂は小さく頷いた。
「隣で、うるさいかもしれませんけど」
「うん」
「……もし気を失ったら、お願いします」
「うん」
視聴覚室はすでに混んでいた。後ろの端が二つ空いていて、そこに座る。部長の挨拶のあと、照明が落ちた。
一本目『○○オブザデッド』。学生が大学に籠城する真面目なゾンビ映画で、内輪ネタもあって笑いが起きた。八坂は両手で帽子を掴み、耳と目を隠すようにして薄目で見ている。帽子が強盗帽に戻りかける。
オチは、逃げ込んだ視聴覚室にスクリーンを見ているゾンビがいて、上映されているのが『○○オブザデッド』だというメタ。拍手。八坂が胸に手を当てて息を吐く。
休憩なしで二本目、『見るな』。
スクリーンに映ったのは飯野だった。
「……何これ」
アパートの玄関。張り紙。『見るな』。破って部屋へ入る。ポストに封筒。中の紙にも『見るな』。居間のテーブルにも『見るな』。ワンカットみたいにカメラが離れない。砂嵐が鳴り、テレビにさまざまなフォントの『見るな』が流れる。
飯野は怯えながらも、目を閉じて自分に言い聞かせる。
「見てない……、見えない……」
目を開けると、居間が文字で埋まっている。天井も壁も床も。そこを手探りで歩く。砂嵐が止み、テレビには天井の隅から見下ろす飯野自身。次々切り替わるリアルタイムの映像。猫の人形の目線。廊下の端。ベランダの外。至近距離。
飯野が人形を裂く。カメラは淡々とそれを映し続ける。見つからない。飯野が叫ぶ。
「見るな!」
脱衣所の鏡。鏡の中の飯野の視線が、こちらに合う構図。観客席の自分と、真正面に目が合う。
「……見たな」
飯野がカメラを掴み、暗転。
終わり。拍手が起きるより先に、室内がざわついた。怖さの種類が違う。映像の迫力ではなく、見られ方が悪い。
隣を見ると、八坂が暗転したスクリーンをぽかんと見ている。失神しているのかと思ったが、瞬きだけしていた。
「感想は」
「……怖かったです」
「どこが」
「由美なんですけど、由美じゃないみたいで」
その言い方が引っかかった。演技が上手かったという意味ではない。本人の輪郭がずれていた、と言いたい顔だった。
三本目『ツナグ電車』は無台詞で、一つの駅を舞台にした男女の生涯みたいな映像だった。朝のホームの少年少女。高校。別れ。再会。結婚。子。孫。夜のホームに老人が一人。写真を握り、最終電車に乗る少女の手を取る。電車が去り、ホームが空になる。駅員が首をかしげる。終わり。
明かりがつくと、八坂が帽子を掴んで泣いていた。感動というより、置き去りにされる終わり方だと思ったが、八坂は嗚咽まじりに拍手している。
上映後、部員が並んで挨拶した。飯野の番になり、彼女は笑いながら言った。
「二本目の『見るな』に出ました、飯野です。実は元ネタになった事件があって、今回の撮影現場がその現場なんです」
ざわつく。
「撮影中、私も少しおかしくなっちゃいまして。本当に吐いちゃったり、ガチで悲鳴を上げちゃったり」
そこで飯野が客席をちらりと見た。自分の方だ。睨まれた気がした。
「しかも私だけじゃなくて、撮ってくれた彼も編集の○○君も体調を崩して。呪いのビデオを作っちゃったかもと思いまして。なので部長に頼んで題名を変えてもらったんです。『見るな』って。なのに……皆さん、見てしまいましたね」
にやりと笑い、明るい拍手と笑いで流された。流されたのが、逆に嫌だった。
八坂とD棟の入り口で飯野を待つ。『5分待ってて』と返ってきた。星のない空に月が浮かぶ。
「何が一番面白かった」
「……面白かったのは、最後の『ツナグ電車』です」
「飯野が出てたやつじゃないんだな」
「由美の演技はすごかったんですけど、内容が分かりにくくて」
八坂はまだ帽子を被っている。上映中に散々掴んだせいで、折り返しがずれて強盗の目元が覗く。
「ありがとうございます。洗って返します」
「洗わなくていい」
「いえ……涙とか、拭いちゃいましたから」
脱ごうとして、八坂が固まった。
「あの、この帽子……家に帰るまで被っていてもいいですか」
普通に「いいよ」と言いかけて、喉で止まった。八坂が顔を伏せている。理由を言わない顔だ。見える人の顔。
「あげるよ」
「え……」
「気に入ったなら」
八坂は言いかけた言葉を飲み込み、代わりに頷いた。
「……大事にします」
常識的に、女の子への贈り物が使い古しの目出し帽なのはどうかと思う。けど、八坂がそれを被っていること自体が、今日の上映より妙に現実っぽかった。見られたくない人間が、見られる道具を身につける。そういう歪み。
飯野が出てきた。
「こんばんは、お二人さん方」
にこりと笑って、次に八坂をじっと睨む。
「見に来るなって言ったでしょ。しかもよりによってこんな回で」
「ごめん。でも良かったよ」
「良かったって……」
「すごく、面白かった」
飯野が息を吐いて小さく呟く。
「あんたを失神させるほどじゃなかったか……」
怒ってはいない。けど、全然安心できない顔だ。飯野は八坂の帽子を見て首をかしげた。
「顔を隠すにしても、こんなのどこで買ってきたの」
「あ、これは田場さんが」
八坂が小さく笑って、
「……田場さんが、くれたんよ」
数秒の沈黙。飯野が折り返しをつまんでずり下げた。強盗が完成する。穴の位置が合ってない。飯野がこちらを睨む。言いたいことは分かる。仕方のない流れがあった。飯野も分かった顔で半笑いのまま首を振った。
「良かったじゃん」
折り上げて元に戻す。八坂は困りながら嬉しそうだった。
飯野は打ち上げでD棟に戻り、八坂と二人で自分のアパート近くのバス停まで歩いた。話題は当然、二本目だ。
「部屋中に『見るな』って書かれてたの、どうやったんでしょう」
「隠れてたのかな」
「切れ目は無いように見えましたけど」
夜道に信号の音だけが響く。
「……私も小さい頃、よく『見るな』って言われました」
「背後霊でも見えてたのか」
「あ、いえ。泣いてた時に母に」
八坂は小さく笑った。
「怖いと思うから怖いんだ、見ようと思うから見えるんだって。だから怖がるな、相手にするな、見るなって」
「単に見るなと言われてもな」
「なので、目を悪くしようと思って暗い部屋で本を読んだりしてたんですけど」
「視力は」
「両方2.0です」
良すぎる。見える人にそれは嫌味だ。
「八坂は、見たくないのか」
「……田場さんは、見たいんですよね」
「まあ」
「私は……あんまり見たくないです」
「克服したいから来た?」
「それも、あります」
バス停に着く。八坂は帽子を被ったままバスに乗った。青い帽子が窓越しに揺れ、見えなくなる。
息を吐いた。映画を見ただけなのに疲れた。面白かったはずなのに、胸の奥がざらつく。理由は分かっている。二本目の最後。鏡の中の視線が、観客席に合う瞬間。あれは演出だ。そう思っているのに、いまだに自分が「見た側」ではなく「見られた側」の気分のままだ。
「……おい」
背後から声を掛けられた。振り返ると、隣人のヨシがビニール袋を提げて立っていた。買い物帰りらしい。
「おいおい」
にやにやしながら近づき、肩に手を置く。顔は満面の笑みだ。笑みの形が、飯野の最後のにやりに似ている。
「見たぞ」
「見るな」
自分が反射で言った瞬間、ヨシの笑みがほんの少し歪んだ。
「それ、それだよ。今日のやつ。流行ってんのな」
違う。そういう意味じゃない、と言い返しかけて口が乾いた。ヨシの視線が、自分の顔ではなく、少し上、額のあたりを見ている。
「何を見たんだ」
「お前の頭」
ヨシが指で自分の前髪をちょんと持ち上げる。指が触れた位置が冷たい。自分の身体が一瞬、遅れて反応する。
「あれ、穴、開いてるじゃん」
穴。何の穴だ。帽子は八坂に渡した。自分は何も被っていない。なのに、ヨシの指は確かに何かを探るみたいに動いている。
「お前さ、さっきまで女と歩いてたろ。あの青いの」
「八坂だ」
「知ってる。見たぞ」
ヨシが言う「見た」は、覗き見の軽さじゃない。もっと、撮影の言い方だ。角度の確信がある。
「お前、あれ、貸したのか」
「あげた」
「へえ」
ヨシは肩から手を離し、代わりに自分の背後の暗がりへ目を向けた。アパートの壁際。植え込みの影。何もないはずの場所。
「いるよな。あれ」
自分もつられて見た。何も見えない。見えないのに、見ようとした自分の視線だけが残った。
「見るな」
自分がもう一度言う。今度は、ヨシにじゃない。自分に言った。言った瞬間、耳の奥で砂嵐みたいな音がした。
「お前、今……誰に言った」
ヨシの声が低くなる。焦っている声だ。焦るのは自分の役目だろ、と頭のどこかが冷静に突っ込む。その冷静さが一番気持ち悪い。
その時、スマホが震えた。画面に通知。発信者は八坂。
『見ないで』
短い。句点もない。見ないで、何を。バスの中だ。窓だ。帽子だ。自分の頭の穴だ。全部が曖昧で、だから全部が当てはまる。
砂嵐の音が、今度ははっきり聞こえた。自分のスマホからじゃない。背後、壁の向こう、アパートの共用廊下の奥。暗闇のどこかから。
ヨシが小さく笑った。笑い声を出さない笑い方だ。
「なあ。お前さ。今日の上映、見たよな」
「見た」
「じゃあ、もう見てるよな」
ヨシが指を立て、空中をなぞる。自分の視線が、勝手にその指先を追う。追った先に、何かがある前提で目が動く。
「見るな」
今度は声にならなかった。喉だけが動いた。目だけが動いた。動いた目の先に、薄い紙が貼り付いている。
『見るな』
アパートの掲示板じゃない。ポストでもない。自分の玄関でもない。もっと近い。自分の目の裏側に、貼ってあるみたいな近さだ。
ヨシが肩をすくめた。
「見たぞ」
その言い方が、さっきと違った。覗き見の言い方でも、からかいでもない。確認だ。撮れた、という確認。
自分は、見てしまった。何を見たのかは分からない。分からないのに、見たことだけは確かだった。
そして一番嫌なのは、今この瞬間も、誰かが自分を撮っている気がすることではない。
自分が、見られる側としてここに立っているのに、まだ「どこから撮っているんだ」と考えてしまうことだ。
それは今日、二本目の映画を見た時と同じだ。演出を考える癖。種明かしを探す癖。見ようとする癖。
耳の奥で、砂嵐が笑った気がした。
「見るな」
そう言いながら、もう遅いと分かっていた。自分が言っている言葉が、今日の題名で、今日の合図で、今日の仕掛けの一部になってしまっている。
視線が、植え込みの影の一点に吸い寄せられる。
見たくないのに、見ようとしてしまう。
見ようとした瞬間、目の裏の紙が、ゆっくりと折り畳まれる感覚がした。
四つ折りにされ、ポケットに入れられるみたいに。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「かれき ◆UtLfeSKo」 2019/02/05]