伊原千鶴さんは、私たちが玄関に入る前に、傘をどこへ置くか教えてくれた。
雨はやみかけていたが、沖野さんの長い傘の先から、水がぽたぽた落ちていた。千鶴さんは古い鉢の受け皿を持ってきて、これなら倒れてもいいからと言った。三十六年前の声を訪ねて来た私たちは、まず二本の傘を壁に立てかけた。
卓上には、手書きの原稿と、青いケースに入ったカセットが置いてあった。原稿は古いものではなく、来週の朗読会で使う文章だという。鉛筆で息継ぎの印がいくつも付いている。千鶴さんはそれを脇へ移し、「今は長い文章だと、最後が急ぎ足になるの」と笑った。私は確認票を出し、この家の様子や住所は会館の展示資料に書かないこと、録音の公開範囲はあらためて相談することを伝えた。
「名前は載せてもいいです。私がしゃべったものだから。ただ、怖がって辞めたってことにはしないでください。あのあとも仕事はしました」
千鶴さんは私の紙を読んでから、最初の希望を言った。私は「辞めていない」と書く代わりに、彼女の言葉をそのまま記した。千鶴さんはコピーされた作業票を見て、右上の汚れを指でなぞった。
「私の手元にあるのは、家で練習したほうです。会館で使ったものと同じ録音かどうかは、分かりません。こんな短いものでも、何回か読みましたから」
彼女は自分でカセットを小さな録音機に入れた。再生ボタンが戻りかけ、もう一度押すと、軸が回り始めた。最初は男の人の歌が短く鳴り、止める音がした。そのあとに、若い女性の笑い声と「三つ、続けて言います」という説明が入った。
「います。よく聞こえます。もう一度お願いします」
三つの文は、私が想像したより近い間隔で読まれた。続いて「ちょっと早いね」と同じ女性が言い、紙を動かす音が入った。次の読みでは、一つずつの間が長くなった。千鶴さんはそこで止めた。会館にある四十三秒のデータとは、雑音の質も、全体の長さも違った。
「これが元だ、と書かないでね。似たことを言っていても」
「はい。伊原さんのお手元の練習録音、とします」
私は用意した資料の表題を直した。声が残っているテープを見つけたことで、穴が一つ埋まったような気持ちになっていた。「元録音」の二文字へ線を引くと、千鶴さんは自分のカセットを青いケースへ戻した。私が写した題名を、彼女も一度読んだ。
千鶴さんは棚から便箋を一枚持ってきた。昔のことを訊かれると、ほかの日の記憶が混ざるから、電話をもらってから順番を書いたという。上から「土曜日」「午前中」「新しい靴」と並んでいた。日にちは会館の記録を見て確かめたが、土曜日だったことと、靴のかかとが痛かったことは覚えていると言った。
「あの部屋には、何をしに入ったんですか」
「聞いて、返すんです。向こうから聞こえたら、聞こえますって。何も聞こえなければ、もう一度お願いします。難しいことじゃありませんでした」
千鶴さんは便箋の空いているところに、椅子と扉を描いた。椅子は初めから窓の真下ではなく、少し奥にあった。呼びかけが聞こえにくいと、壁のスピーカーのほうへ首を傾けた。足を伸ばせるほど広くなく、膝の上の紙がずり落ちたときは、一度立って拾ったという。
「声が途切れたのは、私が返事するほうだったらしいんです。私は聞こえているつもりでも、向こうには届かない。それで、もういいですよって言われたので、出ました」
「扉は、ご自分で」
「普通に開けました。閉じ込められてはいません」
質問の形に含まれていた予想を、彼女ははっきり退けた。私はうなずいて次へ進もうとし、いったんペンを置いた。千鶴さんが今のことを確かめるようにこちらを見ていたからだった。
「出たあと、廊下の人に言いました。足が痛くなっちゃったって。今思うと、そんなことまで覚えているのは妙だけど」
彼女は右足を少し引いた。靴の話を書こうとしていた私のペンが、机の上へ転がった。千鶴さんが拾って返してくれた。
そのあと千鶴さんは調整室へ上がった。階段の途中で、下から男の子に「もう終わりですか」と訊かれ、「たぶんね」と答えた記憶があった。調整室には神尾さんと、もう一人いたはずだが、誰だったかは言えない。神尾さんは卓の上に身をかがめ、小さなスピーカーに顔を向けていた。
「私が入ったら、神尾さんが『いますか』って言ったんです。私に言ったのかと思って、はい、ここに、って答えた。そしたら手で、ちょっと待ってって」
千鶴さんは、手のひらをこちらへ向ける動作をした。強く押し返すような仕草ではなかった。話が終わるまで割り込まないでほしい、という日常の小さな合図だった。その穏やかさのほうが、私はすぐに思い描けた。
「スピーカーからも、『います』って聞こえました」
沖野さんが顔を上げた。千鶴さんは続ける前に、カセットの停止ボタンを押し直した。もう止まっているのに、指がそこへ行ったようだった。
「録音したのを流してるんだと思った。私の声に似ていたし。それで、私もう出てますよ、って言ったんです。神尾さんは『分かってます』って。分かってるなら、何を確かめてるのか、私には分かりませんでした」
「その時点で、録音を使うという説明は」
「聞いていません。自分が録ったものを使うこと自体は、不思議ではなかった。でも、次の返事は知らなかったんです」
千鶴さんは便箋の最後を見た。そこにはまだ何も書かれていなかった。彼女は言葉を選んでいるというより、何をその日から覚えていたのか探しているように見えた。
「神尾さんが、どの辺にいますか、って訊いた。そしたら『窓の下です』。そう聞こえました。私が練習で読んだ三つにはありません」
私は反射的に、作業票の三行を見た。千鶴さんの私物の録音には、まだ聞いていない部分がある。会館の別の録音も残っているかもしれない。私は残りの録音も聞かせてもらえるか尋ねた。千鶴さんはテープを戻し、歌の続きを飛ばさずに、練習の終わりまで再生した。「窓の下です」という文は出てこなかった。彼女は停止ボタンから手を離し、もう一度便箋を見た。
「神尾さんは、誰か入りましたか、って言いました。私に訊いたんだと思います。それで、私が出たときは誰も入っていないと答えた。ところがまた、向こうに訊くんです。まだいますかって」
「返事は」
「ありました。『います』。それは覚えています。それより後の順番は、自信がありません」
千鶴さんは自分で便箋に線を引いた。ここから先は混ぜたくない、と言った。誰が廊下へ行き、誰が扉を開け、どの段階で試験をやめたのか。私たちは先回りする質問をせず、覚えている範囲を聞いた。最後に空の部屋を見たこと、椅子が倒れていなかったこと、自分の原稿を取りに戻ったことは確かだった。窓の下には何もなかった、と彼女は言った。
帰り際、沖野さんが、当時の報告に名前がほとんど出てこないことを説明した。千鶴さんは靴を履きかけた私たちを呼び止め、居間へ戻って小さな封筒を持ってきた。中には会館の謝金の受領控えがあった。二月十八日、案内音声協力。金額の横に千鶴さんの署名がある。
「大ごとにしたかったわけじゃないんです。ちゃんと帰って、次の仕事をして、そうやって暮らしてきました。ただ、あとで『室内にいた人の聞き違い』って言われたときは、違うと思った」
彼女は控えをコピーしてよいと言い、原本は封筒に戻した。
「私は、そのとき外にいたんです。そのことは残してください」
私は玄関で手帳を開き直した。傘を持つ前に書いておかないと、声の奇妙さのほうを先に文章にしてしまう気がした。千鶴さんは私が一行を書き終えるのを待ち、濡れた受け皿を片付けた。訪問が終わると、彼女にはまだ来週読む原稿の続きがあった。

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。登場する人物、団体、場所、出来事、取材、録音、映像および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。