母の裁縫箱には、針を抜いた穴が塞がらない針山が入っていた。
母が亡くなったあと、私が引き取ったのは裁縫箱と足踏みミシンだった。母は洋服の直しをしていて、近所の人のズボンや制服を預かっていた。私は仕事にするほど縫えなかったが、裾を上げたり、取れたボタンを付けたりするのは好きだった。
針山は小さな木の器に収まっていた。紺色の布が擦れて白くなり、縫い目から茶色い詰め物が見えた。待ち針を一本抜くと、布の穴が丸いまま残った。古い布だから、繊維が戻らないのだろうと思った。
新しく作ればよかった。それでも、母が長く使ったものをすぐ捨てるのが嫌で、そのまま使い始めた。色の付いた頭を持つ待ち針が、十二本刺さっていた。私は数が合わなくなるのを嫌うので、使う前と使ったあとに確認した。
最初に気になったのは、針を戻すときだった。途中までは柔らかい。いつもの深さまで刺すと、その先で何かに触れる。木の底だと思って針を少し引き、角度を変えた。今度はもっと浅いところで止まった。
詰め物が固まっているのかもしれない。私は太めの針を使って、端からほぐそうとした。針を動かすと、布の表面が反対側で盛り上がった。詰め物の塊が押されたのだと思ったが、針を引いても、盛り上がりは残った。
次の日には元へ戻っていた。そのかわり、待ち針が一つ、深く沈んでいた。黄色い頭だけが布の上に出ている。抜くと、ほかの針より抵抗があった。先に糸屑が絡まっていると思って明かりにかざしたが、何も付いていなかった。
針山には、黄色い頭と同じ大きさの穴が開いた。穴の縁に、紺色の糸が一本渡っていた。私は指で糸を払った。糸は穴の奥へ引き込まれた。
その週末、友人から頼まれたスカートの裾を縫った。待ち針を一本ずつ外し、針山へ戻していく。最後の一本が入らなかった。どこへ刺しても、先が柔らかいものに当たって滑る。針山を持ち上げて振ると、器の中で何かが動いた。
布と木の器の間には、古い縫い糸が巻かれていた。ほどいて布を外せば、詰め物を替えられる。私は小さな糸切り鋏を持ってきて、その糸を一本切った。
針山が少し傾いた。まだ鋏を当てていない場所で、糸が切れる音がした。続いて、向かい側でも同じ音。器に巻かれた糸が、私の切ったところから順に外れていった。
私は鋏を机へ置いた。布の端が木の縁から離れ、隙間ができた。茶色い詰め物の下に、白いものがあった。指の腹ほどの大きさで、細い溝が何本も走っていた。
針山の底を確かめようとした手を止めた。白いところが、縁を探るように少し動いた。布の上に刺さっていた赤い待ち針が、ゆっくり沈んだ。頭が布に触れると、それ以上は下がらなかった。
私は裁縫箱の蓋を閉めた。友人のスカートだけを片付け、箱を押入れへしまった。針を抜いておくべきだったと気づいたのは、布団に入ってからだった。針は十二本とも残っている。どの先も、あの白いものに触れているのだと思った。
翌朝、裁縫箱を開けた。針山は器にきちんと収まっていた。切った糸も、元のように巻かれている。待ち針は十二本あったが、頭がどれも布に触れるほど沈んでいた。
私は一番端の青い針を抜いた。黄色い針のときと同じ抵抗があった。針の先が抜けると、穴が丸く残った。今度は奥が見えた。白いものに、小さな赤い点が一つあった。
針を戻せなかった。机の皿に置き、次の一本を抜いた。白いところの赤い点が二つになった。三本目を抜こうとすると、針山の布が指の方へ寄った。
木の器は動いていなかった。上に被せた布だけが、私の指に触れようとしていた。私は残りの針を抜くのをやめ、裁縫箱を押入れへ戻した。
いまも箱はそこにある。縫い物には新しい針山を使っている。古い箱に残した十本が、全部抜けてしまったらどうなるのかは考えないようにしている。
昨夜、押入れの中で木が擦れる音がした。今朝、裁縫箱の蓋に、内側から小さな青い針の頭が出ていた。青い針は、机の皿に置いたままだった。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]