小屋跡で待った時間が、何分だったのかは覚えていない。佐井さんの時計を一度見て、僕の電話と少し違うと思った。その差を確かめる必要があるような気がして、画面を開いたり閉じたりした。そこへ戻ってきた隊員の人が、石積みのどこから色を見たのか、現地で示せるかと聞いた。僕はすぐに立った。
僕に捜索が任されたわけではなかった。通行できる通常道の範囲で、八日に立った位置を知らせる。それだけだった。隊員の人と佐井さんが一緒に来てくれた。先を歩く人の靴には泥がついていた。何時間も歩いている人たちの前で、待った時間ばかり数えていた自分の手を、ポケットへ入れた。
石積みまでの道で、姉の電話がつながらないか試した。呼び出しはできなかった。電話をしまうと、体が急に重くなった。水を飲もうとして足を止めたとき、佐井さんも止まった。何度もすみません、と言うと、急いで転んでも仕方がないです、と返された。
石積みの右肩は八日と同じように欠けていた。僕は北の道へ一歩寄り、ここから見た、と示した。隊員の人が僕の横に立って右を見た。黄色いものはない。斜面には濡れた葉が重なり、細い枝があった。僕は帳面を開き、八日に入れた短い縦線と、現実の場所とを見比べた。紙へ描くとき、木と木の間を広げてしまっていた。あの日はもっと見通せたのか、見たものを描きやすくしただけなのか。
「直人」
呼ばれたと思った。佐井さんではない。右奥の枝の下に、赤いザックが見えた。
そこにいた姉は灰色の帽子をかぶり、こちらに少しだけ顔を向けていた。眉の位置まで見えたと、あとで僕は話している。けれど今、その顔を描くことはできない。ザックと、紺の袖と、僕を呼ぶときの首の傾きが、ひとまとまりになって見えた。
「姉です」
そう言いながら、僕はもう右足を出していた。隊員の人が何か言った。佐井さんの手が肩に触れた。姉はほんの数歩先にいて、枝をよけようとしている。あそこまで行けば手が届くと思った。登るつもりも、道を調べるつもりもなかった、と後から何度説明しても、脇道へ入ったことは変わらない。止められていたのに、僕は行った。
最初に踏んだ土は滑らなかった。二歩目も同じだった。細い枝を片手で押して抜けると、そこに姉はいなかった。代わりに、下へ曲がる道が見えた。紺色の肩がその先で動き、もう一度名前を呼ばれたと思った。僕は足を速めた。
背中で佐井さんの声がした。戻って、と言っていた。振り返ると、来たはずの道が見えなかった。枝のトンネルの奥に、杉の幹がいくつか立っていた。その向こうの地面は、低い方へ続いていた。僕は上からここへ来た。なのに、戻る先も下っている。
その場で止まればよかった。止まって、声のする方へ自分の居場所を伝えればよかった。僕は斜面の傾きより、数歩先にいた姉の方を信じた。姉が見つかったのだから、姉を連れて戻ればいい。両手で枝を押し分け、赤いものが動いた方へ進んだ。
道を横切る白い幹があった。皮が広く剥け、湿った表面に細い土が入り込んでいた。右側に枝の付け根が突き出している。幹の手前に浅い水たまりがあり、落ちた葉が底についていた。僕はそこで初めて、目の前の形を知っていると思った。写真で見たのではない。何度も別の人の文から描こうとした形だった。

帳面を出して、白い木、と書いた。文字を書くことで、今いる場所をどこかへ留めたかった。鉛筆の芯が濡れた紙に引っかかった。時刻も書いたが、数字の最後を塗りつぶしてしまった。頁を送って道の曲がりを短く描きかけ、鉛筆を止めた。電話の画面をもう一度見ると、指が濡れていて上手く動かなかった。
赤いザックは見えなくなっていた。近くにいるはずだと思っていた姉は、名前を呼んでも返事をしない。僕は倒木を越えず、来た方へ戻った。戻る道はやはり下りだった。急坂ではない。靴の踵を置くたびに膝が少し曲がり、体が前へ運ばれる。上がった記憶のない地面を、下りていた。
土の広いところへ出ると、水がたまっていた。白い幹がその先を横切っていた。右に枝の付け根があった。僕は幹へ近づき、傷を探した。一度目に傷を見ていないのに、傷を見つければ同じ木かどうか判断できると思っていた。木の表面を触ると、冷たい水が掌についた。
僕の足跡らしい窪みが二つあった。そう言えるのは、自分の靴の幅と同じくらいだったからである。跡は水で崩れ、靴底の模様までは残っていなかった。それでも、自分が同じ場所を回っているという説明が欲しくなった。円なら、円の外側へ出る方向があるはずだった。
だが、どちらが外側なのか分からない。七重さんに消すよう言われた輪を、頭の中で閉じようとしていた。
このときのことを、佐井さんは後に次のように話した。
直人さんが脇へ入って、見えなくなるまで、長い時間はなかった。最初は枝の下に屈んだように見えた。千紗さんの姿は自分には見えなかった。追いかけて道を外れかけ、隊員に止められた。呼びかけへの返事はあったように聞こえたが、位置は特定できなかった。
僕は佐井さんの声を聞いたことを覚えている。けれど、返事をした記憶がない。姉の名前を何度呼んだかすら、もう数えられない。
膝に力が入らなくなって、道の脇へしゃがんだ。谷の方は明るかった。曇っているはずなのに、木々の間だけ、午後の光が差しているように見えた。そこまで行けば周りが見えるだろうと思った。しかし、さっきも同じことを考えて歩いた気がした。見通せるところへ着く前に、見通せるところがまた先へできる。
僕は鞄の中の水を飲んだ。口へ運ぶ手が震えていた。自分で来た場所へ帰れないのだと、そのときになって認めた。姉のことばかり話して、僕も捜される側に増えていた。父はまた電話を待ち、誰かが父へ、息子さんも見失ったと伝えることになる。
木の根に帳面を置いた。八日の石積みの絵が開いた。僕の線には迷ったところが何本も残っていた。姉はここを、ちゃんと一枚にしたいと言った。僕は一本の道へ直せると思って家へ帰った。そのことまでが、ひどく遠く感じられた。
下で小石が転がった。
顔を上げると、灰色の帽子があった。姉は木の幹に手をつき、片方の足をかばうように立っていた。今度はザックだけでなく、頬に泥がついているところも見えた。僕が名前を呼ぶと、姉の顔がこちらへ向いた。
「直人?」
姉は驚いた声を出した。最初に僕を呼んだ人とは違う声だった。僕は帳面を拾い、姉の方へ下りた。足元を確かめる余裕はなかった。姉は僕が近づいても逃げず、肩に触れても消えなかった。上着をつかんだ指の下で、骨が動いた。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・資料・捜索記録は創作であり、実在の登山道案内や安全指針ではありません。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。