下りだけの道、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

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下りだけの道|第七章 追いつくまで iwa+

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十四日の朝、父は湯を沸かす前に、食卓の紙を全部持ち上げた。輪染みを作らないためだった。姉の予定表、写真の控え、僕が印刷した古い記録。それらを一束にして台所の棚へ置き、茶碗を三つ出しかけたところで、一つ戻した。七重さんが来る、と僕が言うと、父はまた同じ茶碗を出した。冷えたご飯を温め、僕らは連絡を待ちながら食べた。父は箸を持ったまま電話を取れるよう、右側だけ空けていた。

朝の木の食卓に並ぶ三つの茶碗と箸。二つの茶碗にご飯が入り、一つは空いている。
挿絵:AI生成による架空の場面

捜索は朝から続いていた。佐井さんから入る連絡を、父と僕はそのつど同じ紙へ書いた。姉が見つかったという知らせはまだなかった。山へ行く支度を始めると、何か役に立っている気がしたが、支度を終えても僕のすることは変わらなかった。靴下を履いたまま食卓へ戻り、姉の予定表をもう一度開いた。予定された宿泊先まで姉がたどり着いたと、僕らのところで確かめられる情報はなかった。

 七重さんは九時過ぎに来た。玄関で父へ頭を下げたが、慰めの言葉は言わなかった。小さな布の鞄に古い帳面と複写を入れ、もう片方の手にはパンの袋を下げていた。食べたばかりです、と父が言うと、あとで誰か食べるだろうと袋を台所へ置いた。僕は古い冊子の一九六九年の頁を示した。七重さんは老眼鏡をかけ、数字より先に、文章がどこで次の筆跡へ替わるかを見た。

 七重さんたちの山行より十八年も前に、同じ記述がある、と僕は言った。七重さんは、そう読めるけれど、この人たちには何があったか聞いていない、と答えた。昔の南回りを知っている人でも、何年にどの木が倒れていたかまでは言えない。二つの時代に書かれた白い木が同じ木なのか、違う木なのか。七重さんは倒木の略描を見たあと、頁の余白へ目を移した。七重さんは短い鉛筆を僕から借り、複写の隅へ「書き手未確認」と書いた。

 父が、姉の机にあった展示用の封筒を持ってきた。昨日、写真を探すために姉の部屋へ入ったとき、机の上へ出ていたという。中には並べ方を試した小さな写真と、裏へ鉛筆で書き込んだ紙が入っていた。八日に僕が石積みを描いている写真もあった。姉がいつ撮ったのか気づかなかった。僕の背中が手前に大きく入り、石積みは肘に隠れていた。写真の中の僕は、自分の足元をよく見ている人のようだった。

 別の紙には、樺平へ向かう北の道が写っていた。裏に、短い文が三つあった。「待つ場所を描いてもらう」「あのときの向き」「待っている人は、立ち止まっていない」。日付はなかった。三つ目だけ筆圧が強く、裏返すと写真の薄い空に文字の窪みが浮いていた。僕は声に出して読み、七重さんへ差し出した。何かを確かめたあとの文なのか、確かめる前の思いつきなのか。姉にしか聞けないことが、家の中に増えていった。

 「お母さんが歩き続けてると思ったんでしょうか」。僕が聞くと、七重さんは紙を食卓へ戻した。「そこにお母さんとは書いてないね」。父は椅子を少し後ろへ引いた。七重さんの返事を冷たいと思ったのかもしれないし、別の紙を取るためだったのかもしれない。僕は「お母さん」と書き足しかけた鉛筆を置いた。八日に撮った写真も、黄色のあった脇道ではなく、北へ進む僕の背中を写していた。

 路子さんの手紙の文と似ていると言うと、七重さんはうなずいた。前の人が待っていると思うと、道が長くなる。姉は七日にその文を読んでいた。ただ、七重さんは二つを続けて読むのを嫌がった。「路子がこれを書いたのは、山から帰って一年もたってからだよ。山で気がついたことを、その場で書いたんじゃない」。僕は複写の端に手紙の日付を書いた。昨日までは同じ薄い紙の上で、道に迷った日と、相手に手紙を書けるまでの長い時間とを重ねていた。

 路子さんは助かったあとも、しばらく階段がつらかったという。七重さんが見舞いに行くと、今度は一緒に行こうという話が周りから出た。路子さんは笑って聞いていたが、七重さんへ次の日程を聞くことはなかった。「帰ってきたから全部終わったように、こっちも思いたかったんだね」。七重さんはそう言い、姉の写真を指で押さえた。僕は路子さんに話を聞ければと思ったが、本人が断っていることは知っていた。今日ここにいない人の答えを、七重さんに代わって言わせることはできなかった。

 父は、七重さんが帰れたときのことを聞いた。どちらへ歩いたのか、誰かに会えたのか。七重さんは、斜面で見つけてもらった、自分が選んだ道をそのまま教えれば千紗さんも戻れるとは言えない、と答えた。父は小さく礼を言った。方法が一つあれば、そのまま姉へ伝えたかったのだと思う。僕も同じだった。七重さんの昔の青いシャツや、路子さんの茶色い上着が、いまの姉の紺色の上着へ重なりかけていた。父は、紺の上着、と小さく繰り返した。

 僕は二〇〇四年の父の手書きを出した。姉は樺平で待つよう言われ、僕はあとから一人で北の道を行った。声に出して読むと、姉が僕に聞いた質問の場所で詰まった。母が何をしていたときに、その言葉を聞いたのか。母はどちらを向いていたのか。紙には書かれていなかった。父は自分が書き忘れたのかと聞いた。僕は首を振り、「僕の説明が足りなかった」と言った。父の書き方が、いま僕らを困らせているのではなかった。

 七重さんは僕を見たが、何が足りないのかを続けて聞かなかった。父の電話が鳴り、二人とも話をやめた。山から戻った人の情報をもう一度確認しているという連絡だった。父が聞き終わるのを待つあいだ、僕は手書きの紙を折りそうになった。姉が自分を責めていたのは、僕の説明を信じていたからでもある。そのことを言葉にしないまま、姉の残した文の意味ばかり考えていた。紙を平らに戻し、二〇〇四年の分として別の袋へ入れた。

 午前のうちに、姉の書き込みを撮った画像を佐井さんへ送った。僕らの読みを添えるのではなく、表の写真と裏の文字が同じ紙だとわかるようにした。さらに八日に描いた石積みと、そこから黄色を見た位置の下描きも送った。蓑田さんへ伝えた内容を、場所と結びつけられる形にしたかった。佐井さんから、現場で図の向きを確かめたいので、昼過ぎに通常道の範囲まで一緒に来られるかと連絡があった。父は行っておいでと言ったあと、帰る前に電話を、と付け足した。

 出発する前、七重さんは借りていた鉛筆を返した。「千紗さんに聞くことは、帰ってからでも聞ける」。僕は、そのために見つけたいんです、と答えた。七重さんは何も言わず、机へ鉛筆を置き直した。姉を見つければ僕が何かを言える、という考えの順番を、彼女は嫌ったのかもしれない。僕は橙色の帳面を鞄へ入れた。鞄の留め具が一度で閉まらず、僕は帳面を奥へ押し込んだ。

 佐井さんと登山口で合流し、通常道を上がった。八日には姉の仕事の話を聞いていた場所で、今日は佐井さんから、勝手に離れないでほしいと言われた。わかっています、と答えた。旧西沢小屋の基礎が見えてくると、近くにいた隊員へ複写を渡し、石積みの欠けた側と道の向きを説明した。紙が風に持ち上がり、僕と隊員が同時に角を押さえた。僕は自分の指を引き、その人が読み終わるまで待った。

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・資料・捜索記録は創作であり、実在の登山道案内や安全指針ではありません。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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