下りだけの道、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

怪談 n+2026 オリジナル作品

下りだけの道|第六章 下山予定 iwa+

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十二日の朝、姉から、冷蔵庫に残っている煮物を父と食べておいてほしいという連絡が来た。僕は自分の部屋にいたので、父さんに言って、と返した。姉は「あ、そうだった」と送ってきた。数日実家で過ごしただけで、家にいる人の数へ入れられていた。続いて、今日は山に泊まり、明日の昼には下りる予定だと書かれていた。通常道で樺平を通り、先にある避難施設で一泊する。佐井さんにも予定は渡してある、とあった。

 僕は一人なのかと聞いた。返事は「今回はね」だった。佐井さんは仕事で都合がつかず、姉には翌日までの休みがあった。僕が送った「この前の道には入らないで」に、姉は「予定は北の道」と返した。僕はその文を何度も見た。約束として十分なのか、もっとはっきり言わせるべきなのかと迷ったが、結局「帰ったら連絡して」と送った。姉から、了解という文字と、帽子をかぶった顔の小さな印が届いた。それが、山へ出る前の最後のやり取りだった。

 その日、僕は借りていた画集を返し、帰りに洗濯用の洗剤を買った。昼過ぎには、次の仕事で使う町並みの写真を分けた。写真に写った電線を絵で残すか、どこまで省くかを考えていた。夕方、姉へ何か送ろうとして、電波が届かないかもしれない場所で返事を求めることになると思い、画面を閉じた。画面には、了解の横で笑う小さな顔が残っていた。

 十三日の昼過ぎ、佐井さんから電話があった。名乗ったあと、千紗さんから連絡は来ていますか、と聞かれた。まだ、と答えた声が自分でも硬かった。予定の時刻を過ぎており、姉の電話もつながらない。佐井さんは父へ連絡し、帰宅していないことを確認したところだった。「いま、捜索の相談をしています。直人さんに残っているやり取りがあれば、消さずに見せてください」。僕は立ち上がったが、机の下へ入れていた足が椅子にぶつかった。

 帰らないとわかってから、僕らは夜まで様子を見なかった。佐井さんが警察へ連絡し、知らせを受ける予定だった時刻、最後の連絡、行程を順に伝え、父も家族として救助を求めた。僕が古い記録を開くより先に、その連絡は進んでいた。母のことを話す必要があると思い、電話で口を開いたときには、まず姉の服装を知りたいと言われた。紺の上着、赤いザック、灰色の帽子。八日の記憶で答えると、十二日の出発時も同じだったことを父が確認した。

 荷物を鞄へ入れながら、依頼主へ納期の相談をした。家族のことで急ぎ帰省するので、次の下描きを数日待ってほしい。送った文章を読み返しても、姉が山から帰らないことが自分の文章になっていなかった。返事はすぐに来て、仕事は調整できると書かれていた。僕は充電器を一度入れ、入れたことを忘れて引き出しを探した。橙色の帳面は手に持っていた。玄関を出てから、黒鉛筆が机に残っていることに気づき、戻った。

 列車の中で佐井さんから届いた計画の画像を見た。姉の字で、石積み分岐から北の尾根道を通り、樺平を経る線が引かれていた。南回りには線がない。僕に届いた短い文と同じ予定だった。これで姉は脇道に入っていないとわかった、と考えた直後、計画は実際に歩いた場所の記録ではないことに気づいた。南回りの空白を指で押しても、何も表示されなかった。車窓の遠くに見える山が霧生山かどうかも、僕にはわからなかった。

 町へ着いたとき、父は玄関の鍵を開けたままにしていた。台所の椅子に上着がかかり、食卓には姉の直近の写真が数枚並んでいた。父はどれが顔のわかりやすい写真か聞いた。僕が一枚を選ぶと、父はもう同じものを渡したと答えた。その写真の姉は、写真店の前で新しい看板を指していた。山用の帽子をかぶっていない姉の顔は、八日に一緒に歩いた人より若く見えた。父は写真の端を揃え、留め具のない透明な袋へ入れた。

 父と話しているあいだにも、佐井さんから確認が来た。姉が最近言っていた行先、会う予定だった人、いつも持っていく物。父はひとつずつ答え、わからないことは僕へ聞いた。写真店からも、今日の夕方に立ち寄る予定は聞いていないと返事があった。姉の暮らしにある普通の予定が集められ、山から帰っていればどこかにつながるはずだった。そのどこにも、姉はまだ現れていなかった。

 捜索にあたっていた蓑田薫さんと話したのは、その日の夕方だった。佐井さんが僕らを紹介すると、蓑田さんは八日に一緒に歩いた区間を聞いた。僕は通常道を指し、石積みの脇で黄色いものを見たことを話した。蓑田さんは、姉が何と話したのか、姉自身はそこから先へ進んだのかを別々に尋ねた。僕は進んでいないと答えた。母の話をするときも、蓑田さんは遮らなかったが、二十一年前のことと、八日に僕が見たものとを分けて確認した。

 僕は、一九六九年の冊子と七重さんの記録をその場で見せようとした。スマートフォンには姉からの画像と僕が撮った複写が混ざり、目的の頁が見つからなかった。蓑田さんは急がなくていいと言い、姉がその資料を読んでいたことを聞き取った。「いま探しているのは千紗さんです。行きそうな場所を考える材料になるものは、こちらへ回してください」。その言葉を聞いて、怪しい道を信じてもらえなければ姉を探せない、という思いが少しほどけた。僕はようやく、送る頁を選べた。

 夜になって、家へ戻った。山の上の状況に合わせて活動が続けられていること、わかったことがあれば連絡をもらえることを確かめた。僕は自分だけでも登山口へ行こうと言ったが、父に何をするつもりか聞かれ、答えられなかった。佐井さんにも家で連絡を受けられるようにしてほしいと言われた。僕がそこからいなくなると、誰かが僕の行先を確かめなければならなくなる。その程度のことは、このときにはまだ理解できていた。

 煮物は、姉が書いた通り冷蔵庫に入っていた。父が温め、僕が茶碗を出した。二人ともあまり食べられず、父は残りを小さい容器へ移した。姉が帰ったときに何を言うのかと思った。心配した、電話ぐらいしてくれ、勝手なことをするな。思いつく言葉はどれも怒っていて、その奥にあることをどう言えばいいのかわからなかった。父は容器の蓋がうまくはまらず、何度か向きを変えた。僕が手を出すと、一度だけ首を振った。

 僕は七重さんへ電話をかけた。姉が戻らないことは佐井さんから聞いたと言った。翌朝、保管しているものを持って来てくれることになった。電話を切る前に、八日に黄色いものを見たと話したが、七重さんはそれを母の姿とは呼ばなかった。「千紗さんがどう受け取ったかは、私にはわからないね」と言った。その言葉を聞いても、僕は姉に同じことを聞いておかなかった理由を言えなかった。

 夜中、父の部屋で床が軋んだ。トイレへ行ったのか、玄関を見に行ったのかはわからない。僕は客用の布団から起き上がり、充電中の電話を確かめた。姉との画面には、「帰ったら連絡して」と送った僕の文字が残っていた。その上に、父と煮物を食べておいて、とある。僕は食べたことを送ろうとして、入力した文を消した。連絡はいつでも受けられるようにして、電話を枕の脇へ置いた。

暗い和室の布団と枕の脇に置かれた充電中の携帯電話。画面の文字は判読できない。
挿絵:AI生成による架空の場面

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・資料・捜索記録は創作であり、実在の登山道案内や安全指針ではありません。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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