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暗い玄関の革靴と古い金属の靴べら。文字は「靴べら」「創作怪談」。

短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 怪談 n+2026 オリジナル作品

靴べら iwa+

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靴を脱いだあとの玄関で、もう一度だけ踵が鳴った。

右の靴を引き抜いたばかりで、私は椅子に腰を下ろしていた。両足はタイルから浮いていたし、階段を上がってくる人もいなかった。壁に掛けた金属の靴べらが、揺れながら下駄箱を叩いていた。

以前の部屋へ引っ越したとき、下駄箱の脇に長い金属の靴べらが残っていた。持ち手は薄い木で覆われ、紐を通す穴の周囲だけが黒くなっていた。大家に電話すると、要らなければ捨てていいと言われた。私は外の錆を布で拭き、そのまま使うことにした。

靴べらの先は普通のものより幅が広く、中央が浅くへこんでいた。そこに足を沿わせると、硬い革靴にもすんなり入った。長さがあるので腰を曲げずに済む。使ったあと先を指で挟むと、玄関のタイルより温かかった。足の熱が移るのだと思っていた。

仕事用の靴は右足だけ踵がきつかった。夕方には靴下の縫い目まで食い込み、帰宅するとつま先を押さえて強く引き抜いていた。引っ越してひと月ほどしたある晩、私は靴を履いたまま玄関に座った。右の踵がむくみ、紐をゆるめても抜けなかった。

壁に掛けた靴べらを取り、踵と靴の間へ差し込んだ。履くときとは逆に、先を下へ送りながら足を持ち上げる。奥で一度だけ、濡れた布を剥がすような抵抗があった。右足が抜けると同時に、靴べらの持ち手が手の中で小さく跳ねた。

靴擦れもしていないのに、右の踵がひりひりした。靴下を下げて見ると、皮膚に細い横線が一本あった。血は出ていない。私は風呂へ入り、足を湯につけた。湯の中で踵をこすると、指の下でその線だけが引っかかった。

翌朝、右の靴がずいぶん履きやすくなっていた。むくみが引いたのかと思ったが、左はいつもの硬さだった。会社で机の下に足を伸ばすと、右の踵のあたりで小さな音がした。革がきしむ音に続いて、底が床を擦った。足を動かした覚えはなかった。

その夜は右の靴だけ、玄関に置いても形が崩れなかった。履き口が丸く開き、踵の部分が張っていた。指で中敷きを押すと、奥のほうが温かい。私は新聞紙を詰めていたかと思って手を入れたが、爪先まで何もなかった。

靴は次の朝まで温かかった。左の内側は冷え切っていたので、両方を左右の手に持って比べた。右には、指を抜いたあとも柔らかな抵抗が残った。私は消臭剤を吹き、玄関の扉を開けて風を入れた。薬の匂いが抜けても、右だけ湿っていた。

出勤するとき、その靴を避けて運動靴を履いた。ところが階段を下り始めると、右足が段の縁を擦った。自分が思っている位置より踵が低かった。足首を上げると、もう少し下にあるものまで引き上げる感じがした。段の途中で紐を結び直しても変わらない。

電車では両足を揃えて立っていた。隣の人が一度こちらを見て、わずかに足を引いた。私は床を確かめたが、踏んではいなかった。停車したとき、運動靴の右踵が勝手に上がった。吊革に掴まったまま、私は右膝を押し下げた。

帰宅して靴下を脱ぐと、右の踵の横線が深くなっていた。椅子に座って足首を曲げるたび、その線が口のように開く。中に赤い皮膚は見えず、灰色の薄い面があった。爪で触ろうとすると右足が先に引っ込んだ。力を抜いても、床へ下ろせなかった。

私は翌日の午前中に病院へ行こうと決めた。靴を履いた姿と脱いだ姿を電話で説明するのも難しく、紙に順番を書いておいた。右足の裏を鏡へ向け、横線を撮影した。画面には普通の踵しか写らず、写真を拡大している間に床を二度叩く音がした。

玄関の革靴が、踵だけを上げていた。先端は揃えたまま、右が床に置かれ、少し遅れて左が下りる。私の足は椅子から浮いていた。立ち上がると靴は動かなくなったが、歩き出すまで玄関のほうから革のきしむ音が続いた。

靴を捨てれば済むと思った。紙袋へ二足を入れ、口を折って紐を掛けた。袋は妙に重く、下駄箱の上へ持ち上げると底が片側へ沈んだ。中の靴を揃え直すために開けたら、右と左が袋の中で並んでいた。両方とも爪先をこちらへ向けていた。

大家に、前の入居者のことを聞いた。急に引っ越したのか、忘れ物の連絡先はあるのか。大家は帳簿を確認すると言って電話を切った。返事を待つ間、私は靴べらを壁から外した。裏側に細い横傷があり、そこだけ茶色く曇っていた。

靴べらを洗面台へ持っていった。蛇口の湯をかけ、洗剤をつけた布で先をこすると、曇りが少しずつ取れた。傷だと思った線は、金属の端へ続いていた。先端には薄い金属がもう一枚重なっている。その縁に、短い灰色の毛が挟まっていた。

ピンセットで引くと、毛が一本抜けた。毛の根元についた小さな皮の欠片を見ているうちに、右の踵がつった。私は洗面台に肘をつき、足を床へ押しつけた。かかとが持ち上がるたび、靴べらの先でも薄い金属が浮いた。

私は手を離した。靴べらが洗面台に当たり、長い音を立てた。右足も落ちたが、靴下の中で足の形がずれた。親指を上げると小指の側が動き、足首を曲げると指が床を掴んだ。足の裏には、私の力とは別の力が入っていた。

廊下を戻ると、下駄箱の上の紙袋がなくなっていた。革靴はタイルに並べられ、持ち出そうとした紐が片方の中から出ていた。私は左の靴を蹴って扉の外へ出した。右足で同じことをしようとすると、膝が折れ、靴の手前で止まった。

床へ手をついて、右の運動靴を脱ごうとした。履いていなかった。私は裸足で、脱いだ靴下も椅子の上にあった。それでも右の足先には革が伸びる抵抗があり、踵を引くと床でゴム底が鳴った。目に見える革靴は玄関の端から動いていない。

右の踵の横線から灰色の面がのぞいていた。少しずつ足首へ上がり、私の皮膚を内側から押している。骨の位置は変わらないのに、外くるぶしの下へ別の硬い塊が入った。私は両手で足を押さえた。指の間に、誰かの踵の丸みがあった。

洗面台から靴べらを持ち戻った。あの晩、これで靴から何かを出してしまった。それならもう一度、間に差し込めば離せると思った。玄関に座り、右の横線へ先端を当てた。冷たかった金属が、触れたところから急に温かくなった。

先は抵抗なく入った。皮膚は切れず、靴の履き口を広げるときのように左右へ開いた。私は吐き気をこらえ、持ち手を握り直した。金属は足首より上へ滑り、右の膝の内側へ当たった。その瞬間、耳元で大きく息を吐く音がした。

音は私の口から出ていた。息を止めても、胸が勝手にへこんだ。右手を引こうとしたが、肘だけが外へ曲がって靴べらを押し込んだ。私は左手で右手首を掴んだ。掴んだ場所は冷たく、袖の下で骨が一度回った。

右脚がまっすぐ伸びた。私は左脚を抱えて椅子の脚へ引っかけたが、腰が持ち上がった。玄関の革靴が足の下へ来ていた。左の靴は扉の外へ蹴ったはずなのに、左右が揃っている。私の両足がそれぞれの履き口へ下りていった。

右の靴べらが、踵の裏でゆっくり引かれた。私には、右手を動かした感覚がなかった。背中から薄い汗が出て、シャツが離れた。足の指で床を掴もうとしたとき、右の踵だけが靴の中へ残った。私はその踵を上から見ていた。

立っている私の後ろへ、私は倒れた。頭を打つと思って目を閉じたが、何も当たらなかった。顔を上げると革靴の踵が目の高さにあった。玄関のタイルの一枚が、机ほど広く見えた。両手をつこうとしても、腕が見つからなかった。

私の体はシャツの裾を直していた。右足を二度床に打ち、左へ体重を移す。顎を上げた顔には見慣れた鼻と口があり、その口が私の咳をした。私は声を出したが、革のきしむ音しか聞こえなかった。体が一度こちらを振り向いた。

口が動いた。「まだきついな」声は私の声だった。体は右の靴を少し浮かせ、紐をほどいた。私はそこから出ようとしたが、踵が床を離れると視界も持ち上がった。タイルの上に、私の下半身から伸びた細い影があった。

電話が鳴った。体が左手で取り、大家の声へ返事をした。「忘れ物は、もう大丈夫です」私が聞こうとしていた前の入居者の話を遮り、通話を切った。靴べらは下駄箱の脇へ戻された。体は扉を開け、私を履いたまま階段を下りた。

二段目で、私の顔が段の角に押しつけられた。体が立ち止まり、踵を持ち上げる。私は金属が差し込まれるのを待った。ところが上から指が入り、私を深く押し込んだ。「今度は、抜けないな」私の口が言った。頭の上で、紐が固く結ばれた。

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

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