前任者への連絡は不要、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

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前任者への連絡は不要|第五章 黒田の修繕 iwa+

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黒田恒一さんは、作業室をやめた理由から話し始めた。

 勤め先が変わり、以前の時間に来られなくなった。もともと長く続けるつもりはなく、野間さんが引き受けると言ってくれて助かったという。
「何か、渡し忘れましたか」
 電話で依頼内容を伝えたとき、最初に返ってきたのもその質問だった。
 私は、作業室の仕事の中に、成瀬さんの家の用事が残っていると話した。黒田さんは驚かなかった。
「残ってるでしょうね。終わってないですから」
 十一月十日、作業室の机に資料を並べて話を聞いた。
 黒田さんは自分の引継ぎ票を見て、特に間違いはないと言った。書き方が雑なところはあるが、渡した内容に違いはない。
 家の窓や玄関戸を直した覚えもあった。
「杉浦さんが開けにくいって言うから。蝶番じゃなくて、下のレールですね。そこが沈んでいた」
「成瀬さんに頼まれたんですか」
「会ったことないです」
 即答だった。
「一度も?」
「一度も。始めたときから、前任者には連絡しなくていいと言われてましたから」
 黒田さんにとっての前任者は杉浦さんだった。成瀬さんは、そのさらに前の、会ったことのない人だった。

 成瀬さんの家の模型に手を加えたことはあるという。
 船体の底が左右で少し違っていたので、厚い側を削った。甲板の端を合わせ直した。出来のよい部分もあったが、使う接着剤が場所によって違うため、途中で作る人が替わったのだろうと思った。
「持主に聞かずに直したんですか」
「私のところで止まってたから」
「作業の順番が?」
「舟が」
 黒田さんは、面倒なことを聞く人だという顔をした。彼の説明の中では、作業を直すことと、他人の物へ手を出すことが、つながっていなかった。

 写真を見せると、玄関脇の窓枠も直したと話した。傷んだ部分に細い木を当て、同じ色に塗った。
 修繕の費用は、材料を自宅に持っていたので請求していない。
 いつのことか聞くと、二年ほど前だと言った。
 彼が事務を離れたのは、三年半前だった。
「二〇二二年三月よりあとですか」
 黒田さんは引継ぎ票の日付を見直した。
「そうですね。あとです」
「どうして行ったんですか」
「窓が閉まらないので」
「誰から聞いたんですか」
「いや、自分で開けたときに」
 私が黙っていると、黒田さんは、スマートフォンを取り出した。
 修理の前後を撮る習慣があるという。会社の仕事と自宅の作業が混じっていて、探すのに時間がかかった。

 見せてもらった写真は、二〇二四年二月に保存されたものだった。
 成瀬さんの家の窓枠に、鉛筆で切取り線が書かれている。次の写真では傷んだ部分が取り除かれ、その次では細い木が当てられていた。
 最後の写真に、台所の丸テーブルが写っていた。
 青いマグの隣に、黒田さんの工具入れが置かれていた。
 撮影日時の表示だけで、実際にその日に作業したと断定はできない。画像を移した日かもしれなかった。黒田さんは、その時期に勤め先で余った木材をもらったことも思い出し、二〇二四年で間違いないと言った。
 私たちは、日付より先に、そのあとも家へ行っていたという事実を確認した。

「作業室をやめても、修理の手伝いは続けていたんですね」
「続けていたつもりはなかったです」
「何度くらい」
「わからないです」
 黒田さんは写真を一枚ずつ戻した。
 同じ台所の写真が、二〇二三年にもあった。蛇口の根元を撮ったものだった。二〇二五年四月には、屋外の雨樋が写っていた。
 本人が電話をした記録、依頼を受けた文書は、すぐには見つからなかった。
 写真の端には、見慣れない買物袋が写っていた。
「ああ、杉浦さんのだ」
 黒田さんが言った。
「杉浦さんが来ていた?」
「たまに。砂糖とか、そういうものを持ってきて」
 私はそこで、引継ぎという言葉から想像していた順番を、いったん止める必要があった。

 杉浦さんは、二〇一九年に担当を終えた。
 黒田さんは二〇二二年に終えた。
 野間さんがいま引き継いでいる。
 それなのに、先の二人の用事は、次の人が受け取ったあとにも続いていた。

 黒田さんは、自宅から持ってきた古い工具帳をめくった。材料の寸法や、ホームセンターで買った部品の品番が書かれていた。
 その一ページに、鍵の複製代があった。

 資料六 黒田恒一氏の工具帳
 二〇二〇年六月

 家の鍵 予備 一
 六六〇
 作業室 机の小引出し

 家の鍵の予備は、まだ作業室の机の引出しにあるという。自分で入れて、自分で使っていた。野間さんに話したかどうかは覚えていなかった。
「借りるときに連絡しなくて済むから」
「野間さんへ?」
「誰へ、っていうのは」
 黒田さんは言葉を切った。
「鍵はそこにあるので」

 私は、書類では引継ぎ済みになっていることを確かめた。
 〈家に関するもの 一式〉
 黒田さんの二〇二二年の控えには、そう書かれていた。杉浦さんの二〇一九年の控えも同じだった。
「一式とは、何を指しますか」
「紙と、鍵ですね」
「用事は?」
「それも」
「でも、修理は続けていた」
 黒田さんは工具帳を閉じた。
「頼まれたら、やるでしょう。前の係だからできませんとは言わないですよ」
「頼まれていましたか」
 少し長い沈黙があった。
 部屋の奥の換気扇が、弱く回っていた。私は、質問の内容よりも、聞き方を間違えたかもしれないと思った。
「覚えていないです」
 黒田さんは言った。
「そういうふうに言うと、何もかも覚えてないみたいですけど。直したことは覚えています。どの道具を使ったかも。誰が言ったかだけが出てこない」

木の作業台に置かれた、使い込まれた閉じた工具帳と鉛筆。
挿絵:AI生成による架空の場面

聞き取りの終わりに、黒田さんは、野間さんのいる机へ行った。
 窓枠は直してあるので、強く押さなくて大丈夫だと伝えた。野間さんは、いつもありがとうございます、と答えた。
 その礼は、ごく自然だった。
 二人とも、黒田さんが家へ行っていることを知っていた。私が驚くまで、確認する必要のないことだったらしい。
 黒田さんが帰ったあと、野間さんは青灰色のファイルを開いた。
 継続事項の紙を抜き、裏返し、もう一度表に戻した。
「これで全部だと思ってたんですけど」
 彼は、項目が足りないという意味で言った。
 私は、ここに書かれたものが全部、彼のところへ来たわけではないのだと考えていた。

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。団体、場所、人物、取材、年月日および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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