前任者への連絡は不要、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

怪談 n+2026 オリジナル作品

前任者への連絡は不要|第六章 一人分の空欄 iwa+

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十一月十二日、私は四枚の紙を作業台に並べた。

 成瀬さん、杉浦さん、黒田さん、野間さん。それぞれについて、資料と証言から確認できた行動だけを書いたものだった。
 調査のための作業表であり、作業室の正式な記録ではない。日付がわからないものは、空欄のままにした。
 初めは在任期間ごとに区切ろうとした。しかし、それでは入りきらない行動が多すぎた。
 そこで、担当者の名前を横に並べ、用事を縦に並べた。

緑のカッティングマットのそばの作業台に並べられた四枚の確認用紙。
挿絵:AI生成による架空の場面

食事。
 配達の受取り。
 買物。
 窓と水回りの修繕。
 舟の模型。
 家の明渡し。

 最後の欄だけは、誰の名前の下にも日付が入らなかった。
 それ以外は、同じ期間に複数の名前が入った。
 私はその表を見て、仕事の引継ぎとして読むのをやめた。

 杉浦さんに再度連絡した。
 黒田さんの写真に買物袋が写っていたことを伝えると、彼女は少し黙ってから、今もときどき品物を置くことがある、と答えた。
「何を買われるんですか」
「お茶とか。洗剤とか。なくなるので」
「なくなったと、どこでわかるんですか」
「行ったときに」
 私が前回、作業室をやめたあとのことを十分に聞かなかったのだ。彼女は隠していたわけではなかった。
 自宅用に買ったものを、なぜか成瀬さんの家へ持っていくこともあった。店では、自分の分として籠に入れる。家へ帰って棚を開けると、すでにある。そうすると、あちらの分だったと思い出す。
「思い出す、というのは」
「誰かが言ったのを思い出すんじゃなくて。買うつもりだったのを」
「買物は、引き継いだ項目に入っていましたか」
「そんな、洗剤一本ずつは書きませんよ」
 彼女の言うとおりだった。
 生活の細かな用事を全部、文書にする人はいない。

 黒田さんは、家へ来たときに蛇口が緩んでいれば直した。
 野間さんは、届いた材料を棚へしまい、その続きを作った。
 杉浦さんは、古くなった布巾を持ち帰り、洗ったものを置いた。
 彼らの仕事は、相互に小さな理由をつくっていた。誰かが来るから茶が減る。誰かが飲むから食器を洗う。誰かが窓を開けるから、閉まりの悪さに気づく。
 成瀬さんがそこへいなくても、家を使う理由がなくならなかった。

 私は野間さんと一緒に、私宅に残された物を改めて確かめた。
 片桐さんには、成瀬さん本人の許可がないものを処分しないと約束した。
 食器は一人分より多かったが、椅子は二脚しかなかった。寝具はない。洗面台には、使い切れずに残った石鹸が三つあった。種類が違い、減り方も違った。
 野間さんは、石鹸の一つを、自分の家でも使っていると言った。
 杉浦さんへ写真を見せると、別の一つを自分が置いたと認めた。黒田さんは、残りの一つを覚えていた。
 三人は、同じ場所で手を洗っていた。

 舟の下には、材料についてきた組立説明書があった。
 余白に、違う字で書込みがあった。
 〈このまま乾かす〉
 〈底を削りすぎない〉
 〈左の板を先に〉
 指示は互いに矛盾していなかった。順番に読めば、ひとつの工作の途中経過になった。
 ただし、署名はなく、誰に向けた言葉なのかも書いていなかった。
 私が野間さんにそのことを言うと、自分への覚え書きだからではないか、と答えた。
「前に書いたのが誰でも?」
 彼は紙を見下ろした。
「作ってるときは、前の続きをやってるだけなんです」

 別の人に家で食事をさせ、舟を作らせる考えは浮かんだ。何が起きているのかもわからず、知らない人へ用事を渡すことになる。私は試さなかった。野間さんにも、検証のための行動は頼まなかった。
 ただ、その日の水曜日の食事については、本人から、行くのをやめたいと言われた。
「一回、ちゃんと、行かないと決めてみたいんです」
 私は小野寺さんに事情を伝え、席を空けないでもらった。野間さん自身も電話をかけ、その日は家で食べると話した。
 相手に知らせて終える。それまで誰も、食事の予定についてはしていなかったことだった。

 翌朝、野間さんから短い連絡があった。

 昨夜、自宅で食べました。
 途中で店にいる感じにはなりませんでした。
 小野寺さんから電話があって、来週はどうするかと聞かれました。
 来週も行かないと答えました。

 一晩の報告だった。私の質問に影響された可能性もある。記録したのは、野間さんが予定を決め直し、店側が変更を受け取ったことだった。
 小野寺さんにも確認すると、野間さんという名前で電話を受けた、と答えた。
「これまでの席は、成瀬さんの席でしたか」
「そう思ってたけどね」
「次に野間さんが来たら?」
「予約して来るなら、その人の席でしょう」
 それを聞いても、私はまだ、解決の方法を見つけたとは思わなかった。
 ただ、渡すときには相手がいて、終えるときにも相手がいるのだと、ようやく気づいた。

 夕方、作業室で四枚の紙を見直した。
 成瀬さんの欄には、二〇一六年以降、こちらで確認できた生活の記録がほとんどなかった。
 その隣には、他の三人が引き受けた、食事、受取り、洗濯、修繕、趣味の続きがあった。
 成瀬さんの欄が空く一方で、他の三人の欄は、退任したあとも埋まり続けていた。
 それまでは、そこに何を書き足せばよいか考えていた。
 このとき、空いている部分は、他の三人がすでに埋めているのではないかと思った。

 私は作業表に、新しい見出しをつけた。

 成瀬修氏の私宅と日常に関する行動記録。

 名前を書いた途端、資料の量が変わったように見えた。
 数人の善意が長く続いた記録としては、多すぎた。ひとりの暮らしの記録としては、足りないところがよくわかった。
 ここにないのは、成瀬さんが自分で終えると約束したことだった。

 その夜、私は佐伯さんへ、整理の期限までに終わらないものがあると伝えた。
 作業室の明渡しと、私宅の退去は分けて考えたい。家の鍵と未済の用事を、新たな担当者へまとめて渡すのは待ってほしい。
 佐伯さんは、理由を最後まで聞いた。
「でも、次の担当者はいませんよ」
「そうですね」
 私は言った。
 次の人がいないことを、それまで、仕事が終わる理由として考えていた。
 実際には、いま用事を持っている人たちが、そのまま最後の人になるだけだった。

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。団体、場所、人物、取材、年月日および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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