十一月二十九日の朝、片桐さんは先に玄関を開けていた。
空は明るかったが、風は冷たかった。トタンの庇から、前の晩の水が一滴ずつ落ちていた。
私が着いたとき、成瀬さんは道の入口に立っていた。約束の時刻より十分早かった。大きな鞄を一つ持っていた。
「入らないんですか」
「まだ、誰も来ていないと思って」
玄関は開いており、片桐さんの声が聞こえていた。成瀬さんにも、聞こえていないはずはなかった。
私は一緒に道を入った。
家の前まで来ると、成瀬さんは、庇が低いですね、と言った。
私が初めて家へ来たときと同じ高さだった。

杉浦さん、黒田さん、野間さんは、少しずつ時間をずらして来た。
それぞれが持ち帰る物を先に決め、同じ場所で一度に話さないようにしたかった。ただ、作業が重なり、全員が家の前に揃う時間ができた。
成瀬さんは杉浦さんへ頭を下げた。黒田さんと野間さんには、初めて挨拶した。
黒田さんは、成瀬さんの顔を長く見た。
「ずっと、もっと大きい人だと思ってました」
成瀬さんは返事に困ったようだった。
家の中の物は、特に体の大きい人向けではなかった。黒田さんが何からそう感じていたのか、その場では聞かなかった。
初めに、私物を持ち帰ってもらった。
黒田さんは、自分の工具を見つけた。杉浦さんは洗濯ばさみのついた布巾を外した。野間さんは、置いた覚えのない鉛筆を、自分が使っていたものだと認めた。
成瀬さんは、誰かが作業台の裏へ打った小さな釘を見ていた。
「何を掛けるんですか」
「袋です」
黒田さんが答えた。
成瀬さんはうなずいた。作った覚えがある、とは言わなかった。
私はそのことを、確認の一覧とは別の手帳に書いた。
残った食器を成瀬さんが見ていたとき、片桐さんが玄関から聞いた。
「持って帰りますか」
「はい」
三人の声が重なった。
杉浦さん、野間さん、成瀬さんだった。
黒田さんは、少し遅れて口を開き、何も言わずに閉じた。
杉浦さんが、私は自分の袋のことを、と言った。野間さんはマグを見ていた。成瀬さんは、そのマグへ伸ばしていた手を引いた。
片桐さんは聞こえなかったらしく、もう一度聞こうとした。
私は、食器は成瀬さんが判断します、と伝えた。
その言い方が強すぎたと思い、本人へ向き直った。
「必要なものは、持っていかれますか」
成瀬さんは、青いマグを取り上げた。
「これは、持っていきます」
今度は、彼だけが答えた。
模型を入れるための箱を、私が用意していた。
運送用ではなく、家から車まで運ぶ間に壊さないためのものだった。底に紙を詰めると、黒田さんは舟の下へ手を入れた。
野間さんも同時に持ち上げようとした。
二人の手が触れ、舟が少し傾いた。
「私がやります」
成瀬さんが言った。
黒田さんと野間さんが手を離すまで、ほんの短い間があった。
成瀬さんは船体を両手で持ち、箱へ入れた。甲板の端に、細い板が一本、貼られずに残っていた。
「ここ、直してからのほうが」
黒田さんが言いかけた。
「このままで」
成瀬さんは答えた。
誰も次の作業を始めなかった。
舟も食器も、揃えてから返す条件ではなかった。成瀬さんが箱の蓋を閉め、手で押さえた。誰も、残った板へ手を伸ばさなかった。
台所を片づけている途中、野間さんが外へ出た。
私は少ししてから様子を見に行った。
彼は道の端にしゃがみ、携帯電話を見ていた。気分が悪くなったのかと聞くと、そうではないと言った。
「今、帰ろうと思ったら、帰る先が出てこなくなって」
「ご自分の住所はわかりますか」
「わかります。ここに書いてありますし」
野間さんは携帯電話をしまった。
「頭では、わかるんです。あっちの駅で降りて、そこから歩くのも。なのに、家を出るという感じにならない」
いま引き返して、窓を閉め、やかんを見れば落ち着く気がすると言った。
私は、片桐さんが最後に確認することになっていると伝えた。
「野間さんの忘れ物があるかだけ、あとで一緒に見ましょう」
彼はうなずいた。
しばらく外にいることにし、私だけが中へ戻った。
杉浦さんは、棚の奥を拭こうとしていた。
その布巾は、彼女が持って帰るはずのものだった。
「拭かないほうがいいですか」
「片桐さんに聞きましょう」
家主は、あとは自分で掃除するから、そのままでよいと答えた。
杉浦さんは布巾を畳み、袋へ入れた。
黒田さんは蛇口を一度締め直し、工具入れを閉じた。
低い作業台は成瀬さんと黒田さんで運び出した。残りの材料も箱へまとめ、黒田さんの車へ積んだ。今日、この荷物を成瀬さんの現在の部屋へ運ぶことだけは、二人で改めて約束していた。
誰も、最後に何か一つ、よくしてから帰ろうと言わなくなった。
成瀬さんが見つけた未開封の手紙は、本人がまとめて持ち帰った。
私が保管していた写真や一覧は、あくまで整理のための記録だった。本人の手紙の内容を読む必要はなくなった。
片桐さんと成瀬さんは、玄関脇で使用料の精算の話をした。私は金額を記録しなかった。
話が済むと、成瀬さんは部屋の中央へ戻った。
作業台のなくなった六畳の部屋には、空の衣装箱と、外した押入れの戸だけが残っていた。
衣装箱も成瀬さんが車へ運んだ。
彼は押入れを見て、外したままだった戸をどうするか聞いた。片桐さんは、そのままでよいと言った。
それで、もう聞くことがなくなった。
退去確認の紙に、成瀬さんが署名した。
そのあと片桐さんが、明渡しを受けたと署名した。
私は、鍵をまだ渡していないことを確かめた。
野間さんは木綿紐のついた鍵を、黒田さんは作業室から持ってきた予備の鍵を、それぞれ成瀬さんへ渡した。
成瀬さんは二本を掌に載せたまま、しばらく見ていた。
「一本だったんですけど」
「予備を作りました」と黒田さんが言った。
「はい」
成瀬さんは二本とも片桐さんへ差し出した。
家主は受け取り、鍵の本数の横に確認の印をつけた。
誰かのために一時的に預かった人を、途中で挟まなかった。
全員が外へ出る前に、私は野間さんと一緒に部屋を見た。
鉛筆も、鞄も、彼が持ち込んだものは残っていなかった。
「窓は」
彼が言いかけた。
「私がやります」
片桐さんが答えた。
野間さんは、お願いします、と言った。
初めて来たときには、自分でやかんの水を捨てていた人が、その日、何も触らずに玄関へ戻った。
最後に成瀬さんが出た。
彼は靴を履いたあと、家の中へ顔を向けた。片桐さんはまだ台所の窓を見ていた。
「長いあいだ、ありがとうございました」
成瀬さんは家のほうを向いたまま言った。
「はい」
片桐さんが返事をした。
「これで、お返しします」
「受け取りました」
それは立会いの場にふさわしい、ごく普通の会話だった。
片桐さんが引戸を閉め、鍵をかけた。
成瀬さんは鍵の音を聞いてから、舟の入った箱を持ち直した。
杉浦さんは先に帰ると言った。黒田さんは車を出す。野間さんは駅まで歩く。
同じ道の入口で、四人の行き先が別になった。
成瀬さんは、皆に何か言おうとして、箱を足元に置いた。
謝る言葉は面談のときにも、電話のときにも聞いていた。この場でも言ったが、長くは話さなかった。
「もう、行かなくて大丈夫です」
それが、三人へ直接伝えた、最後の用事の連絡だった。
誰も、続きを引き受けますとは答えなかった。
私は片桐さんと家へ戻り、家主の許可を得て、整理後の写真を撮った。
確認のため、返却された二本の鍵も撮影した。一本ずつ形が違うことと、予備があることを残したかった。
木綿紐のついた鍵を丸テーブルへ置いた。青いマグを置いていた場所だった。
撮影後、鍵は片桐さんへ戻した。
私は作業室の緑札の鍵だけを持って、その家を出た。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。団体、場所、人物、取材、年月日および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。