最初に渡された鍵は二本だった。
一本には緑色の楕円の札がついていた。もう一本は、使い込まれて角の丸くなった真鍮色の鍵で、木綿の紐に小さな紙札が結ばれていた。札には何も書かれていなかった。
佐伯景子さんは、緑の札がついたほうだけを持ち上げた。
「ここの鍵です。下の引戸と、裏の勝手口。上の階はもう空ですから、上がらなくて大丈夫です」
もう一本について聞くと、佐伯さんは机の向こうにいた野間透さんを見た。
「それは野間さんのじゃないですか」
「引継ぎの鍵です」
野間さんはすぐに答えた。それから少し考え、私の手元にある二本を指した。
「どっちも、そうですけど」
北窓共同作業室は、以前は印刷所の作業場だった。
大きな機械は撤去されていたが、床には四角く色の違うところが残っていた。その上に木の作業台が置かれ、緑の大きなカッティングマットが一枚、敷いてあった。曇りガラスの引戸から入る光では、部屋の奥まで明るくならない。佐伯さんは話の途中で立ち上がり、壁のスイッチを押した。
父親が印刷所を畳んだあと、趣味の工作をする近所の人に場所を貸すことになったのだという。木工、紙の模型、古い家具の修理。使う機械が減るにつれて、集まる人も減った。
二〇二五年十一月末で、貸出しを終えることが決まっていた。
私に頼まれたのは、十八年間の書類を整理する仕事だった。会計として保管するもの、建物とともに残すもの、利用者へ返すものを分け、最後に一覧を作る。必要に応じて以前の担当者に話を聞くことも、依頼に含まれていた。
「父に聞ければ早いんですけど、細かいことは全部、成瀬さんに任せていたみたいで」
佐伯さんの父親は健在だった。ただ、共同作業室には長く関わっておらず、書類を一枚ずつ見てもらうのは難しいという。
成瀬という名前は、その日、ここで初めて聞いた。
「初めの担当者です」と野間さんが言った。
「今も来られるんですか」
「来ないです。私が入ったときには、もう」
彼はベージュの金属書棚を開け、青灰色のファイルを抜いた。表紙は紙を挟み直せる平たいもので、背を留める紐だけが新しかった。

私は最初に、野間さんの在任期間を確かめた。二〇二二年四月から現在まで。その前は黒田恒一さん、さらに前は杉浦千里さん。成瀬修さんが初代だった。
作業室には、常勤の職員はいなかった。事務担当者は、自分が利用しやすい時間に来て、鍵の貸出し、消耗品の注文、利用料の取りまとめをする。月に一定の手当はあったが、勤務時間を計る仕組みはなかった。
ファイルの初めに、野間さんが署名した引継ぎ票があった。
資料一 事務担当引継ぎ票
二〇二二年三月三十一日
前任 黒田恒一
後任 野間透
受領したもの
一、作業室鍵 二本
二、会計帳簿 一式
三、利用者連絡帳
四、工具購入控え
五、継続事項 別紙による
前任者への連絡は不要です。
未済の事項は、後任にて引き続き対応してください。
下部に、二人の署名があった。
別紙は罫線入りのルーズリーフで、鉛筆による書込みが多かった。電気料金、刃物の研ぎ直し、換気扇の清掃。そこまでは、分類先に迷わない。
その下に、見慣れない項目があった。
水曜日 十八時二十分 小野寺
配達があるときは、家で受け取る
雨戸は閉めきらない
退去の立会い 日程待ち
小野寺さんは取引先だろうと思った。「家」は、佐伯さんの家かもしれなかった。建物の所有者と近所の利用者が顔見知りなら、仕事と個人的な頼み事が混じるのは不自然ではない。
私は、退去というのはここを明け渡すことかと聞いた。
「それは、ここのじゃないです」
野間さんは言った。
「私が引き継いだときから書いてあるので」
別紙をめくると、黒田さんが受け取った二〇一九年の票にも、杉浦さんが受け取った二〇一六年の票にも、同じ四項目があった。
数字の書き方も、項目の順も違った。コピーを重ねたものではないらしい。水曜日の時刻には、一八・二〇、一八時すぎ、六時二十分という三つの書き方があった。
退去の立会いだけが、九年間、一度も済んでいなかった。
佐伯さんはその別紙を見たことがなかった。
誰かが作業室を住居として使っていたのかと心配したが、野間さんは首を振った。
「成瀬さんの家です」
「成瀬さんの?」
「たぶん」
「野間さん、そこに行ったことがあるんですか」
「あります」
佐伯さんが次を聞くより先に、野間さんは、行けばわかると思います、と言った。
細かな近所付き合いを部外者へ説明するのが面倒なのだろうと、そのときは思った。
整理を始めて二日目、私は引継ぎ票の「作業室鍵 二本」が気になった。
佐伯さんに渡されたのは、緑の札の鍵と、紙札の鍵だった。しかし作業室の正面と勝手口は、緑の札の一本で開いた。
予備はないのかと聞くと、野間さんは机の引出しから、緑の丸い札がついた別の一本を出した。こちらが予備だという。
私は鍵を三本並べて写真を撮り、一覧に、作業室用二本、用途確認中一本、と記した。
その日の夕方、野間さんは帰り支度をしながら、紙札の鍵だけを取り上げた。
「これは、置いておくものじゃないので」
持ち帰る理由を聞くと、配達があるかもしれない、と答えた。
彼はその日に荷物が来るかどうかを知らなかった。送り主も、注文した品物も、わからなかった。郵便受けに不在票が入っていたら困るから、と言った。
私はその夜、資料の一覧を作りながら、担当者の引継ぎと私物の預かりを別の欄にした。会計に関係する記録と、返すべきものの記録が混じると、後で処分の判断ができなくなる。
最初の備考欄には、こう書いた。
成瀬氏の私用と思われる項目が継続されている。現担当者へ確認。
翌朝、野間さんに一覧を見せた。
彼は私の書いた「私用」という言葉に丸をつけた。訂正するのかと思ったら、何も書かずに鉛筆を置いた。
「そう書くんですね」
「違いますか」
「いえ。そうだと思います」
彼は丸の内側を、消しゴムで一度こすった。印刷した文字なので、消えなかった。
「小野寺には、私も行ってます」
水曜日の予定について、こちらから聞く前に、野間さんが言った。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。団体、場所、人物、取材、年月日および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。