休日の午後だった。
外出の予定はなく、母も私も家にいた。母は居間で新しく買ったテレビゲームに没頭していて、私は床に座り、猫たちとだらだら過ごしていた。窓は閉まっている。外は静かで、風の音も聞こえない。家の中には、ゲーム機の起動音と、時おり母がボタンを連打する音だけがあった。
この家で、こういう時間を過ごすのは珍しくなかった。母と二人暮らしで、来客もほとんどない。猫が複数いるせいか、家の中には常に微かな物音があり、それを気にすることもなくなっていた。
だから、そのとき感じたものが、はっきりと「違う」と分かった。
廊下の方から、人の気配がした。
音ではなかった。足音も、床の軋みもない。ただ、誰かが「通った」としか言いようのない感覚だった。空気が一瞬、押し分けられたような感じ。私は反射的に顔を上げ、廊下の方を見た。
ほぼ同時に、母も顔を上げた。猫たちも、一斉に動きを止めて、耳を廊下に向けた。
次の瞬間だった。
廊下の端から端へ、影が走り抜けた。
身長は私の腰あたり。私は一五八センチだから、せいぜい一メートル前後だと思う。輪郭は曖昧で、色は濃くも薄くもない。ただ、子供の形をしていた。足音はなかった。畳を踏む気配も、空気を切る音もない。ただ、視界の端から端へ、すっと移動した。
速さは、人が全力で走るよりも少し遅い。だが、迷いがない。一直線に、廊下を横切った。
猫たちは、追いかけなかった。威嚇もしない。ただ、目だけでそれを追い、影が消えた先を、しばらく見つめ続けていた。
私は、声が出なかった。喉が詰まったように動かない。母も同じだったらしく、コントローラーを持ったまま固まっていた。
沈黙が数秒続いたあと、私はようやく口を開いた。
「……今、何か見た?」
母は、こちらを見ずに答えた。
「見た」
声が少し低かった。
「子供だったよね」
一拍置いて、母が言った。
「両手に、シーツみたいなの持ってた」
その瞬間、背中が冷えた。
私は、まだそのことを言っていなかった。
「廊下の端から端に……たたたた、って」
言いながら、私は自分の言葉に違和感を覚えた。足音は、聞こえていない。なのに、走り方のイメージだけが、頭に残っている。
母は、ゆっくりとこちらを向いた。
「同じの、見た」
それだけ言って、再び廊下に視線を戻した。
廊下の先は、寝室と風呂場につながっている。どちらの戸も閉まっている。誰かが隠れる場所はない。そもそも、この家に、私と母以外の人間はいない。
小さい子供が出入りすることもない。親戚の子も来ないし、近所付き合いも薄い。家の構造上、外から勝手に入り込めるような場所もない。
猫たちは、しばらくその場を動かなかった。耳を立て、尾を低くして、警戒しているようだった。
時間が経つにつれ、母は何事もなかったようにゲームを再開した。私は、猫たちの背中を撫でながら、廊下から目を離せなかった。
あれが何だったのか、話題にはしなかった。言葉にすると、形が定まってしまいそうだったからだ。
それ以降、同じものを見ることはなかった。だが、廊下に対する感覚だけが、変わった。何もなくても、そこに「通り道」があるような気がする。誰かが、通る前提で存在している空間。
母も、同じらしかった。廊下を横切るとき、無意識に端を歩くようになった。猫たちも、昼間でも廊下の中央を避ける。
あの影が、何者だったのかは分からない。悪意を感じたわけでもない。危害を加えられたこともない。
ただ、確かにそこにいて、私たちに見られた。
それだけが、今もはっきりと残っている。
[出典:894 :韮弐 :05/01/28 20:10:56 ID:u9OY9P620]