無音の試聴室、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

怪談 n+2026 オリジナル作品

無音の試聴室|第十二章 空室の記録 iwa+

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四月十二日、私は舟橋会館へ最後の確認用原稿を持っていった。

表紙には「内覧時の音声と旧第二試聴室に関する記録」と書いた。仮に付けていた「音声事故」の題名は、その下に残した訂正履歴の中にある。
 原稿には、三月四日の八人の反応、当日の証言、保存された音声と映像の違い、一九八九年の試験、三月十八日の出来事、撤去の記録を順に収めた。古い試験票の丸印は、誰が室内を確かめたことを示すのか分からないままだった。千鶴さんの私物録音を、会館の四十三秒の音声へ差し戻すこともしなかった。同じ言葉を読んでいても、その場で使った録音とは確認できていない。
 沖野さんは、文章を途中から読まず、最初のページから確かめた。宮坂さんと井草さんも、それぞれの発言が載っている箇所だけでなく、前後の順番を読んだ。神尾さんの訂正文は、元の試験記録とは別の年月日をつけて収めた。千鶴さんには、名前と当日の位置、会館での仕事をやめていないことが正しく書かれているか、前もって確認してもらった。
 そこまで済ませてから、私は三月四日の四十三秒に付ける説明を見せた。

 この区間には、録音上、人の声を確認できません。映像では観客が入口側へ顔を向け、うち一人が発話する動作をしています。当日、声を聞いたと話す参加者がいます。

 上映するための字幕としては長すぎた。今回は資料の説明であり、画面へ数秒だけ表示する必要はない。短くするために消してよいものがあるか、井草さんへ尋ねた。彼女は三行を指で追い、これなら映像と話を分けて読めると言った。
 三行の説明を印刷し、最初の「無音」という指示の横へ置いた。堀内さんが呼びかけた相手の欄も、宮坂さんへ待てと言った相手の欄も、空いている。私の声の出所も書けなかった。沖野さんはその空欄を埋めずに、次のページをめくった。

 最後に確認するものとして、撤去日の映像が残っていた。清水さんが撮影した作業記録と、私が最後に室内を写した短い映像である。私は写真を撮ったあと、椅子やスピーカーを取り外した位置が分かるよう、携帯を横向きにして十数秒だけ動画を回していた。画像として必要なところだけを取り出したので、音声はその日まで聞いていなかった。
 事務室の机で、音を小さくして再生した。白い四角が残る壁、穴を塞いだ蓋、椅子のない床。扉の枠の手前を、清水さんの作業着が横切る。カメラが少し下がり、養生板を剥がしたあとの床が見える。そこで小さな音がした。
 き、と一度だけ、木の硬い部分がこすれるような音だった。
 宮坂さんが、もう一度止めて見せてほしいと言った。私は音がした直前まで戻し、静止画にした。室内には誰もいない。画面の外には、私と、入口で確認表を持つ井草さんがいた。清水さんは廊下を客席側へ歩いている途中で、田辺さんと沖野さんはホワイエにいた。宮坂さんはその日、体調を考えて作業の最後には参加していなかった。
「何か、踏んでいませんか」
 宮坂さんが聞いた。私は撮影中、敷居の外で足を止めていたと答えたが、自分の靴底が全く動かなかったとは言い切れなかった。作業中に残った物の音か、携帯に触れた音かもしれない。音の名前を決める前に、別のカメラの同じ時間を確かめることにした。

 清水さんのカメラには、入口の外に立って携帯を構える私が写っていた。音はそちらにも小さく残っていた。私の右側で、井草さんが確認表を持ち上げる。部屋の中へ向けたのではなく、撮影を終える私に、作業が済んだことを知らせる動作だった。紙の下半分がカメラへ向いたとき、文字が読めた。

 全員出ました。これで終わります。

 その一文は、井草さんが自分で書き加えたものだった。名前に印がついているだけでは、撮影している私へ伝わらないと思ったのだという。誰かが声にして読んだ記憶は、彼女にも私にもなかった。録音にも、その言葉は入っていない。
 私は音のした位置へ印をつけた。紙が上がってから、二秒弱あとだった。清水さんは、すでに画面の左端から出ている。私の足は動かない。井草さんも、紙を持ったまま立っている。その向こうに、扉の開いた旧試聴室が写っていた。

 私たちは、千鶴さんへ音を聞いてもらうかどうか相談した。椅子を覚えていると連絡してくれた本人に、こちらが名前をつける前の音を聞いてもらいたかった。沖野さんから、作業記録に小さな物音が残っているが、聞くことを希望するかと尋ねた。千鶴さんは翌日、ほかの仕事のあとであれば来られると答えた。
 私はその日、音声だけを切り出したものは作らなかった。どこで、何を撮ったときの音かを、一緒に見てもらった。千鶴さんは最初の再生では何も言わず、二度目には、音の前から椅子のなかった床を見ていた。
「この音は、座るときじゃないです」
 彼女はそこで画面を止めてほしいと頼んだ。
「立つときです。足を引いて、体を前へ持っていくと鳴る。座るときは、鳴らなかった」
 私は千鶴さんの言葉を、四月十三日の証言として書き加えた。千鶴さんはそのあと朗読会の会場へ向かい、私は音の説明欄を空けたままにした。

 撤去作業の記録では、椅子を台車へ載せた時刻が十三時五十二分だった。清水さんのカメラは搬出の前から回っていて、私が携帯を下ろすまで、同じ入口を映し続けていた。椅子が客席側へ運ばれ、その後に通った人の手には工具や紙があった。椅子を部屋へ戻した人はいなかった。二台の表示時刻だけに頼らず、井草さんが紙を上げた動作を重ねて、私は同じ箇所を確かめた。
 私の携帯が室内を写したのは、十四時三分だった。
 音のする直前、カメラは空の床を映している。壁際には何もない。扉は開いている。廊下の全員が、もう部屋の外にいる。
 井草さんが、これで終わります、と書いた紙を上げる。
 そのあとで、椅子から立つ音がする。

開いた扉の向こうに空の試聴室が見える。手前で横向きの携帯電話を持ち、同じ空の床を記録している。
挿絵:AI生成による架空の場面

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。登場する人物、団体、場所、出来事、取材、録音、映像および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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