三月十八日の十一時二十二分に、私は会館の通用口へ着いた。
受付の代わりに置かれた長机には、工事担当者の名前と、出入りした時刻を書く用紙があった。井草さんの名前の横に、十一時〇七分とあった。私は自分の時刻を書き、彼女のいるホワイエへ向かった。
廊下の床には、機材を運ぶための青い養生板が敷かれていた。旧試聴室の前には工具箱が二つあり、扉は大きく開いていた。田辺さんが脚立の上から配線口の写真を撮り、清水さんは床に座って図面を見ていた。作業は予定どおりで、古い分岐は調整室側で切り離し、旧スピーカーへ音が送られない状態を二人で確認済みだという。壁のスピーカーは、午後に外すため、まだそのままだった。
宮坂さんは客席で沖野さんに説明していた。私は千鶴さんに送る写真を撮りたいと伝え、田辺さんが脚立から下りるのを待った。部屋の中へ勝手に入らないため、開いた扉の外に立ち、椅子と壁のスピーカーが一緒に入る角度を選んだ。曇りガラスからの光は弱く、天井の照明が椅子の座面に小さな白い四角を作っていた。

井草さんはホワイエで写真の説明札を並べていた。出来上がったばかりの印刷物を一枚ずつ読み、日付と名前に印をつけている。私もそちらへ行き、千鶴さんへ写真を送ってよいか確認する文面を作った。千鶴さんが思い出した片脚は、写真の端へ半分隠れていた。もう一枚撮りに戻るか迷った。椅子の脚も撮ったので必要ならお送りします、と追記し、写真を一枚添えた。
十一時三十八分、廊下で物が倒れた。大きな音ではなく、工具箱の蓋が閉じたような音だった。顔を上げると、沖野さんがホワイエの入口へ出てきた。彼女は何か言ったが、私には聞き取れなかった。口の動きが止まったあと、客席側から宮坂さんの声がした。
「出ています」
私は彼がホールのどこかにいると思った。沖野さんもそちらへ顔を向けた。ところが、ホールから出てきたのは清水さんだった。彼は片手に小さな無線機を持ち、もう片方の手で奥の廊下を指した。
「宮坂さん、まだそっちです」
清水さんの声は普通に聞こえた。そのあとに、同じくらいの高さで、もう出ています、と聞こえた。清水さんは無線機を裏返し、電源が入っていない画面をこちらへ向けた。見せられた理由を理解する前に、私は椅子から立っていた。
舞台下手の廊下へ入ると、田辺さんが旧試聴室の前にいた。扉は最初に見たときと同じように開いている。彼は室内の床を指し、宮坂さんがしゃがみ込んだと言った。椅子を出す前に下を確かめようとして、姿勢を崩したらしい。私の位置からは、開いた扉が視野の右半分を隠していた。
「声、かけているんですけど」
田辺さんが一歩横へ寄った。宮坂さんは扉の内側、右壁に片肩をつけて座っていた。椅子の前脚と自分の足を避けるように膝を曲げ、片手で耳の下を押さえている。顔は上がっていて、意識を失っている様子ではなかった。私は呼びかけた。
「宮坂さん、見えますか」
彼の唇が動いた。声は聞こえなかった。耳の下に置いていた手を、私の後ろへ向けて伸ばした。そのとき、ホールのほうから私の声がした。
「そこで待っていてください」
私は入口の金具をつかんだ。声が止まっても、喉の奥にはその言葉が残った。自分で言ったのではない。そう思うまでに、宮坂さんの肩が壁へもう一度触れた。さっきどこかで言ったのを、誰かがまねたのだろうか。だが、私はその日の作業中、誰にもそこへ残るよう頼んでいなかった。背後を振り向いても、沖野さんと、少し遅れて来た井草さんしか見えなかった。
宮坂さんは口を動かしたまま、部屋の奥へ目を向けた。奥には小さなスピーカーがある。私はその四角い箱を見た。午前中に切り離した、と説明された箱だった。だが、今の声はそこから聞こえたのでもない。声は背後、ホール側で、私が来たのとは違う方角にあった。それを誰かへ説明しようとしたが、言葉がまとまらなかった。
沖野さんは救急へ連絡するため携帯を出した。田辺さんは中へ入ろうとして、宮坂さんが両手を前へ出したため止まった。井草さんが私の肘を軽くたたき、自分のタブレットを見せた。いつの間にか、画面が大きな字へ切り替わっていた。
ここから出ます。立てますか。
私は端末を受け取り、宮坂さんの顔の前へ差し出した。彼は文字を読み、私を見た。私はうなずき、出口を指した。宮坂さんが立とうとすると、椅子が膝に触れて鳴った。その音は聞こえた。ほんの短い、木の脚が床をこする音だった。私たちは椅子を横へずらし、田辺さんが宮坂さんの右腕を支えた。
まだです、と背後で誰かが言った。今度は私の声だったか、別の人の声だったか分からなかった。音の方向を確かめたくなり、首が動きかけたところで、井草さんが出口側の床を指した。彼女は宮坂さんの目を見て、同じ場所をもう一度指した。
宮坂さんは一歩進み、敷居をまたいだ。壁の赤い入室ランプは、そのあいだ一度もつかなかった。私が最後に部屋から足を出すと、沖野さんの声が急に近くなった。住所と、意識はあるという説明が聞こえた。先ほどからずっと電話をしていたのだと、その時点で初めて分かった。
宮坂さんを客席の通路へ座らせた。彼は水を飲まず、しばらく両手で自分の膝を押さえていた。田辺さんが椅子を取りに行こうとしたので、沖野さんはホワイエのものを持ってくるよう頼んだ。誰も旧試聴室へ戻らなかった。私は借りたタブレットを井草さんへ返し、画面にまだ残っている文字を見た。
「誰かが中で待っていると言っていましたか」
私は宮坂さんへ尋ねかけた。その途中で、井草さんが首を横に振った。私はタブレットへ打ちかけた「待っている人」の文字を消した。井草さんは、宮坂さんの携帯が出てくるのを待っていた。私は言い直し、何があったか、話せるところだけ教えてください、と入力した。
宮坂さんはしばらく画面を読んだ。そのあと、自分の携帯を出して打った。
出ていいと言われたので立ちました。外から、まだと言われました。何度も違うことを言われて、どちらへ行けばいいか分からなくなりました。
「誰に言われたんですか」
私の問いを文字にする前に、彼は入力を続けた。
高瀬さんが外にいました。声も高瀬さんでした。でも、入ってきた高瀬さんは何も言っていませんでした。
私はその画面を写真に撮ってよいか尋ね、許可をもらった。私自身が彼の前で「見えますか」と言ったことは、あとで別に書くつもりだった。宮坂さんの側では、その言葉は聞こえていない。私の側でも、目の前の彼が何と言ったかは聞こえなかった。
救急隊が到着したころには、宮坂さんは短い問いかけへ答えられるようになっていた。膝を椅子へぶつけており、立ちくらみのような感覚もあったため、病院で確認してもらうことになった。沖野さんが付き添い、私は見た範囲を救急隊へ伝えた。廊下で別の方向から声がしたことは、怪しい話としてまとめず、その時間に宮坂さんの発話が私には聞こえなかったことと一緒に話した。
井草さんは工事の人に、何時に誰が何をしたかを、いま各自で書いてほしいと頼んだ。彼女自身も、タブレットの別のページへ書き始めた。聞こえた声の内容をそろえる前に、いた場所と見た動きを残す。私たちは散らばらず、ホワイエの長机で、互いの紙を見ないで書いた。
私の手は、入口の金具をつかんだ形のまま固くなっていた。指を一本ずつ伸ばすと、親指の付け根に細い赤い跡があった。痛みは大したことがなかったが、自分がどれほど強くつかんでいたかを、紙へ書き始めてから知った。
清水さんは、作業記録用に廊下の端へ置いていたカメラを止めてきた。撤去前後の状態を残すため、壁面と扉が入る向きに固定していたものだった。音声を聞いてほしいとは、誰も頼まなかった。清水さんはデータを保存し、元の記録を上書きしない設定になっていることを確かめた。
その日の作業は中止になった。田辺さんは会館に残って必要な安全確認を行い、旧試聴室の前に柵を置いた。工事を途中で放置するわけにはいかなかったが、説明のつかない状況を確かめるため人を入れる理由もなかった。
帰る前、井草さんが、自分の書いた紙を私へ見せた。彼女には誰の声も正確には聞き取れなかった。それでも、私たちが室内の人を見ている途中に、何度も後ろを振り向いたことは見えていたという。
宮坂さんが、入口にいる人の顔を見ようとしていました。皆さんが違う方を向くので、そのたびに顔を上げ直していました。
私は最後まで読み、うなずいた。彼女が画面へ出した「ここから出ます」は、その人へ向けた一つの予定だった。井草さんは保存した画面を閉じた。私は入口の金具の跡を、まだ指でなぞっていた。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。登場する人物、団体、場所、出来事、取材、録音、映像および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。