無音の試聴室、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

怪談 n+2026 オリジナル作品

無音の試聴室|第十一章 再開館 iwa+

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三月三十日、舟橋会館の入口には、来場者が傘を持たずに並んでいた。

朝の雨が上がり、前庭の新しい植込みに水滴が残っていた。子供の発表に来た家族、昔から会館を利用していた団体の人、散歩の途中に寄ったらしい二人連れ。入口の案内係は、配る紙が湿らないよう、束を屋内へ寄せていた。
 私は上映の字幕担当としてではなく、写真展示の説明を確認する仕事で来ていた。途中から必要になった調査と文章の整理には、別の作業費を会館から払ってもらうことになった。最初の見積りに入っていないからと沖野さんが言い、私も変更した作業の一覧を作った。請求書の項目は増えたが、最初の十五分の字幕は納品できないままだった。沖野さんはそれも含めて、作業の一覧を確認した。
 ホワイエには、会館の三十六年を振り返る写真が十二枚並んだ。出演者の確認が取れなかった写真は、空いた場所を別のもので埋めず、展示から外した。最後の一枚は、新しくなった客席を通路から撮ったものだった。写真には、灰緑の椅子が通路を挟んで並んでいた。
 井草さんは、入口近くで案内紙の文字を確認していた。式典の挨拶は、要点をまとめた紙を先に配り、当日の変更は係員が文字で伝える準備がされていた。井草さんが一枚を読み終わると、係員は書き直した案内を取りに戻った。

 千鶴さんは、午前の催しが終わる少し前に来た。薄い茶色の上着を着て、畳める買物袋を腕に掛けていた。私が送った椅子の写真は確認してくれたが、引き取りたいとは言わなかった。備品は会館で処理してよい、ただ写真を一枚残しておきたいと希望した。
「脚の裏の貼り物が、新しくなってますね」
 写真について最初に言ったのは、それだった。自分が使っていたころも片脚は鳴ったが、何度も人が使い、手が入ってきた椅子なのだという。私は備品番号の下へ、千鶴さんから教わった貼り物の話を書き足した。
 神尾さんの訂正は、会館から千鶴さんへ渡されていた。彼女は受け取ったと答えたが、会う予定は決めなかった。謝罪を受けた以上、許したと言わなければならないのかと、少し考えたという。
「そんなふうには載せません」
 私が答えると、千鶴さんは、それなら助かりますと言った。
「私、あのあとも朗読に来ていたんです。神尾さんとも何回か挨拶しています。今日急に、昔のことがきれいに片付いたとは思えない。ただ、部屋にいなかったことは、やっと同じことを書いてもらえた」
 彼女は展示の一枚へ歩み寄った。開館間もない朗読会の写真で、自分が壇上に立っている。頭の傾きが今と同じだと言うと、千鶴さんは、原稿を低く持つ癖があるの、と笑った。

 宮坂さんは、その日の音響操作を別の人へ任せていた。会館に来ない選択もあったが、担当した準備を確かめたいと言って、客席後方へ座った。膝はまだ深く曲げると痛み、通路側の席を選んでいた。
 彼は写真に写った子供たちを見て、自分が撮ったものがあると教えた。十六歳のときの映像クラブでは、ピントが甘いとよく叱られたという。カメラが軽くなる前で、ずっと持っていると腕が震えた。その話をしている彼は、旧試験票の名前を見たときよりよく顔を上げていた。
「カメラ、やめなかったんですね」
「撮るほうは、あまり向いてなかったです。音のほうへ行った。でも、両方やればよかった」
 宮坂さんはそう答えたあと、いや、映っていても見なければ同じか、と言った。私は返事をせず、彼が指した写真を見た。壇上の人より、手前で拍手する観客の後頭部が大きく写っている。誰に頼まれて撮ったのかは、もう覚えていないという。

 開館の挨拶が始まり、ホワイエの話し声が小さくなった。写真を見ていた人たちは、自分で客席へ向かった。入口の係員が人数を数え、通路に荷物が置かれていないか確かめていた。誰かが遅れて来ても、扉の外から一声かければ、中の係員が顔を出した。
 私は後方に立ち、字幕用に用意した言葉が表示されるのを見た。舞台上の挨拶は、事前に配った紙より少し短かった。言い直しがあり、会場で笑いが起き、司会の人が少し待った。予定どおりではない音が、その場所にいる人の動きと一緒に続いた。
 井草さんは前方の通路側に座り、ときどき手元の紙へ目を落とした。笑いが起きたときは、隣の係員が短く文字で説明した。井草さんはその文字を読み、舞台へ目を戻した。私は後方で、係員が紙を渡し直す手を見ていた。

 当日の催しは、予定より七分遅れて終わった。会館の人たちは椅子に残されたパンフレットを集め、出演した子供の忘れ物を受付へ運んだ。音響の確認記録には、使った連絡先が一つずつ記されていた。旧試聴室を含む不要な系統が切り離されていることは、作業の記録と現物の両方で確かめたと報告された。異常な声を聞いたという申出は、その日にはなかった。
 沖野さんは閉館後、私へ小さな封筒を渡した。中には、三月四日の確認用紙と、その後に本人から受け取った補足が入っていた。展示の仕事は終わったが、最初の出来事の記録は、四月に関係者へ返すところまで続けたいという。
「今度は、途中で説明をつけない状態にはしません」
 彼女は言ってから、説明できないところも残るけれど、と付け加えた。私は、四月十二日までに整理して、本人の発言に間違いがないか確認してもらうと約束した。封筒を鞄へ入れたあと、閉め忘れたファスナーを沖野さんが指さしてくれた。
 帰り際に旧試聴室の前を通ると、扉は開いていた。壁にあったスピーカーの形が、周りより白い長方形として残っている。椅子のあった床だけ、光り方が少し違った。私は記録用に一枚撮り、扉を閉めずに廊下を戻った。

椅子とスピーカーが撤去された試聴室。扉が開き、壁には取り外し跡が残っている。
挿絵:AI生成による架空の場面

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。登場する人物、団体、場所、出来事、取材、録音、映像および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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