姉の上着は濡れていた。僕が肩をつかむと、痛い、と言った。力を緩めても、姉は僕を見ていた。こんなところまで来て何をしているのか、と言いたそうな顔だった。僕は同じことを聞きたかったが、最初に出たのは、何で電話に出ないんだ、という言葉だった。
「つながらなかった。途中で、もう電池もない」
「みんな捜してる」
「分かってる」
分かってない、と僕は言った。声が大きすぎて、姉が顔をしかめた。僕は自分の電話を出したが、うまく連絡できなかった。姉に水を渡すと、両手で受け取り、少しずつ飲んだ。口をつける前、蓋が泥についていないかを確認した。その普通の動作を見て、ようやく僕は、本当に姉に会ったのだと思った。
姉の右足首は腫れていた。靴は脱いでいない。歩けると言ったあと、木の根へ座り込んだ。僕も横へ膝をついた。足をどうしたのか聞くと、昨日か一昨日、下りで滑った、と言った。時刻を確かめようとして顔を上げ、今日が何日かを聞いた。
「十四日」
「そうか」
姉はその数字を繰り返した。十三日の昼には下山するつもりだった人の返事としては、静かだった。僕が家のことを話すと、父さん怒ってるだろうね、と言った。怒ってるかどうか分からない、と答えた。僕も父が何を感じているのかを、言葉にしたくなかった。
姉は十二日、通常道で石積みまで来た。そこから北へ進むはずだった。黄色い雨具の人が下にいると思ったので、声をかけた。返事はなかったが、その人が歩くと朱色の小さなものが脇で揺れた。姉は、母の水筒だと思った。確かめるだけ、と思って道を外れた。
「八日も見えたでしょう。だから、ほかの人だったとしても、道のことを聞けると思った」
その説明が、僕が数十分前に自分へした説明と似ていた。数歩だけ行けば、分からないことが片づく。枝を一本よければ、顔を見られる。僕は姉を責める言葉を用意していたが、自分が来た道へ先に当たってしまった。
姉は引き返したと言った。一度ではなかった。元の分岐を探し、電話を取り出し、上へ行くつもりで向きを変えた。下った。倒木にまた出たので、来た道を間違えたと思い、別の窪みを選んだ。その先にも下りがあった。足を痛めたあと、歩く速度はさらに落ちたが、黄色い人との距離は変わらなかった。
「暗くなったら、見えなくなった。でも明るくなると、また先にいる」
「夜は」
「座ってた。眠ったと思う。起きたら、戻れると思った」
姉は僕の腕をつかんだ。薄く泥が乾いている手だった。
「いる」
姉の視線の先を見た。木々のあいだに、黄色い背中があった。僕らから二十メートルか三十メートルほど下の、道の明るいところだった。距離を測ったわけではない。呼べば届くと思えるくらいで、表情を見るには遠かった。黄色い雨具の下から濃い色の脚が出ていた。体の右側で小さな朱色のものが揺れた。
僕は母の名前を呼べなかった。お母さん、と言えば母になる気がした。姉は立ち上がり、右足をついて顔を歪めた。紺の肩越しに、小さな黄色い背中が見えた。僕がザックへ手を伸ばすと、触らないで、と言った。

「戻ろう。もう歩けないだろ」
「あそこまで」
「あそこまで行っても、また先にいる」
「まだ分からないでしょ」
姉の声は怒っていた。僕が何でも早く片づけようとするときの、あの声だった。ここまで来て、また見間違いで終わらせるのか。姉にそう言われる前から、僕は言われたように感じていた。
「顔を見たの」
「見てない」
「じゃあ」
「お母さんじゃないって、直人はどうして分かるの」
僕には分からなかった。二十一年たった人が同じ姿で歩いているはずはないと言えば、姉はその通りだと答えただろう。そのうえで、いま見えているものをどうすればいいのか聞くだろう。僕も見ていた。母の写真を眺めたあとで作った絵とは違う角度で、黄色い背中はそこにあった。
母は、僕たちから離れるとき、こういう歩き方をした。
そのことを先に思い出してしまった。僕の描いた三枚の絵には、一枚もなかった姿だった。雨具の裾が片側だけ持ち上がり、膝がわずかに内へ入る。靴底が見える。見えて、また土へつく。僕が最後に見た母は、振り返っていなかった。
「追いつくって言わなかった」
姉の手が止まった。
「何」
「あの日。お母さん、そんなこと言わなかった」
黄色い背中は木の向こうへ入った。姉は僕から目を離し、道を見た。追わなければ見失う。そう考えていることが分かった。僕は姉の腕を離さずに話した。二十一年のうちに、山でなくても言える日はあった。
あの日、姉が先へ行ったあと、僕は母に文句を言っていた。靴が痛い、腹が減った、もう帰りたい。母は少し休もうと言い、僕の靴を見ようとした。僕は靴を触られるのも嫌だった。さっき追い越していった子供がこちらを見ていたので、子供扱いされるのが恥ずかしかったのだと思う。僕は母の手を避け、北の道を歩き始めた。
すぐ追ってくると思った。僕は何度か振り返った。最初は母が石積みのそばにいた。次に振り返ったときには、南の脇道を下りていた。朱色の水筒を手に持ち、黄色い雨具の背をこちらへ向けていた。何かを取りに行ったのかと思った。追いかけようとはしなかった。自分だけ先に姉へ会えば、母は姉に追いつくまで何も言えない、とも思った。
樺平で、姉はどうして一人なのかと聞いた。僕は母に置いていかれたように思われたくなかった。僕が母を置いてきたと言われるのも嫌だった。それで、先に行けと言われた、と答えた。姉が、いつ来るの、と聞いたので、すぐ追いつくって、と付け加えた。
そのときは、それほど大きな違いではないと思っていた。本当にすぐ来るはずだったからだ。母が着いて叱られれば、それで終わるはずだった。
姉は僕の腕を振りほどいた。僕はもう一度つかもうとして、手を止めた。姉は声を出さなかった。口を開き、息を吸って、閉じた。右の手だけが、ザックの肩紐を強く握っていた。
「私が、戻ったからだと思ってた」
ようやく姉が言った。
「待てなかったから。お母さんが来たとき、私たちがいなかったから」
「僕には、追いつくとは言ってなかった。最後に見たときは、南の道を下りてた」
「それを、今ここで言うの」
僕はうなずいた。すまない、という言葉を出した。姉は顔をそむけた。姉は顔を戻し、今の僕を見た。
下の道で、黄色い背中がまた見えた。さっきより近くなったように思えたが、歩幅は変わっていなかった。姉は足を引きずって一歩出た。
「お母さんなら、聞けばいい」
僕は姉の前へ出た。言い返すための言葉が見つからなかった。母なら聞けばいい。その言葉には、僕の嘘よりずっと強い理由があった。母が本当にそこにいるなら、二十一年の説明を僕から聞かなくてもよくなる。
姉の膝が崩れた。僕は上着をつかみ、一緒に地面へ座り込んだ。湿った落ち葉が袖から入った。姉は痛いと言い、それから僕の腕を殴った。強くはなかったが、何度か殴った。僕は避けなかった。姉の体を支えている腕を、動かせなかった。
「私だって帰りたいよ」
姉は顔を伏せたまま言った。
「あれを見て、帰れると思う?」
僕は下を見た。母の背中が歩いていた。母と呼んでしまっても、距離は縮まらなかった。僕は姉を支え直し、今度は自分の足を見た。泥のついた靴が二足、同じ場所にあった。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・資料・捜索記録は創作であり、実在の登山道案内や安全指針ではありません。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。