姉は長いあいだ、立とうとしなかった。僕は急がせたかったが、急がせるたびに足を痛めることが分かった。動かす前に言って、と姉に叱られ、僕は自分の膝の位置を変えるときまで説明するようになった。姉は鬱陶しいと言った。それから、何をするか分からないよりいい、と言った。
僕の電話から何度か連絡を試した。つながったと思った瞬間もあったが、相手の言葉を聞けなかった。画面に表示される小さな印を見続けても、道は戻らなかった。姉の電話は電源が入らない。僕らはどこにいるのかも分からず、どこから来たかを説明するための印も、同じ形ばかりだった。
僕は姉を見つけた方角へ顔を向けた。そこへ戻れば、さっき座り込んだ根があるはずだった。その先に白い倒木があり、佐井さんのいる石積みがあるはずだった。だが、その道は低い方へ続いていた。姉は僕の視線を追い、そっちも行った、と言った。
「戻ると、下りになるんだ」
「分かってる」
僕は口を閉じた。姉は二日前から知っていることを、僕が初めて見つけたように言っていた。姉の方が長く考え、何度も失敗し、もう歩けなくなっていた。僕は自分の言葉を引っ込めた。
姉は右へ顔を向けた。道を外れた土の斜面に、木の根が出ていた。登山道として歩けるような場所ではない。僕はそこを上がれるだろうかと思い、同時に、また勝手に動いてしまうと思った。立ち止まったまま、佐井さんの名前を呼んだ。

返事らしいものがした。自分の声が斜面へ戻っただけかもしれなかった。姉も顔を上げた。二人で耳を澄ましたが、次には風しか聞こえなかった。
「私、最初の日に、ああいうところも上がろうとした」
姉が根の方を指した。
「でも、あの人が見えなくなるから、戻った」
黄色い人は下の道にいた。さっきから同じ場所にいるようにも、ずっと歩いているようにも見えた。木の幹に隠れ、次の幹の手前へ出る。そのたびに、あそこまでなら行けると思った。姉が見失うのを怖がった理由を、僕は理解してしまった。
「上がってから、見えなくなっても、戻らないでいられる?」
僕が聞くと、姉はすぐには答えなかった。僕も答えを待った。足の痛い姉に諦める仕事まで押しつけていると思ったが、姉の代わりに僕が決めればよくなることでもなかった。
「お母さんを見ないでいられるかは、分からない」
姉は袖で鼻を拭いた。
「でも、直人が転んだら、そっちを見る」
僕は姉の左側へ回った。どう支えれば楽か聞いた。肩へ腕を回すと痛いと言われ、何度かやり直した。上手に運べるわけではなかった。大人の体を支えて斜面を進むのは、僕が思ったよりずっと難しかった。姉の靴が少し引っかかるたび、二人の重さが同じ方へ寄った。
ここに、山から戻る方法を書くことはできない。僕らがしたことの一部は、危険なまま運よく終わった。後で見せてもらった現場の写真には、僕らの近くに崩れた箇所があり、下には深い溝があった。僕はその場で何も知らなかった。ただ、下へ続いて見える道をもう選ばず、体を持ち上げなければ越えられない場所へ足を置いた。
数歩で息が詰まった。太腿が震え、姉が重いと思った。そのことを申し訳なく感じる余裕もなくなった。姉は僕の顔を見て、少し待とう、と言った。二人で同じ根のそばへ座った。姉は僕の息が戻るのを待った。
僕は橙色の帳面を出した。ここまでの道を言葉で説明できなかったので、石積みの絵を探したが、開いたのは、白い倒木のところで時刻を書いた次の見開きだった。左ページは空白で、右には下る道の描きかけがあった。姉が覗き込み、その線を爪で指した。土のついた指先が紙へ触れた。僕が引こうとしたとき、足元の土がずれて、帳面を挟むように二人の手が重なった。姉の爪が僕の指の付け根へ食い込んだ。
「離さないで」
姉は帳面のことを言ったのではなかった。僕は紙を閉じるのを諦め、手首をつかみ直した。泥に汚れた見開きをそのまま鞄へ押し込んだ。あとで紙が折れているのを見ても、どの瞬間にそうなったのか思い出せなかった。
下から、足音がした。僕は母が登ってくるのかと思った。顔を向けかけると、姉の手に力が入った。僕は姉を見た。姉も僕の顔を見ていた。見ない約束はしていない。それでも、そのときは二人とも下を見なかった。
声が聞こえた。名前だった。今度は姉の名前だった。僕が返事をすると、少し待ってから同じ声がした。距離が分かるほどはっきりしていなかったが、僕らが足を止めても聞こえた。佐井さんだと思い、僕は大声で答えた。姉は僕の袖を引き、足を見て、と言った。左の靴が根から外れかけていた。
斜面の上に人の脚が見えた。黄色ではなかった。近づいてくる人が、動かないで、と言った。僕はそこで初めて、もう自分で姉を運ばなくてよいのだと分かった。力が抜けそうになり、むしろ危なかった。姉の体を支えたまま待った。
その先は、僕の記憶だけで順に書くことが難しい。隊員の人たちが姉の状態を確かめ、僕にも怪我がないか聞いた。姉は質問に答え、名前と年齢を言った。三十七歳、と言ったとき、僕は二日前よりずっと若い姉に戻ったように感じた。誰かに自分のことを伝え、次に何をすればよいか教えてもらえる場所へ戻ったのだった。
佐井さんは少し離れた通常道の側にいた。僕を見ると、大きく息を吐き、そのまま前へ屈んだ。謝ろうとすると、いまは歩けるか答えてください、と言われた。僕は歩けますと言った。実際には膝が震えていて、一度立ち止まらせてもらった。
隊員の人たちと合流した位置は、あとから聞いた限りでは、通常道から遠く離れてはいなかった。僕が何度も下ったと感じた距離とは合わない。それでも、地図の上で近いから安全だったとは言えない。道の外側には、短い距離でも人を隠すだけの傾きと木があった。捜してくれた人たちは、僕らが見えていたはずだとは言わなかった。
佐井さんの話では、僕がいなくなったあとの声を聞いた場所や、斜面の踏み跡をもとに捜索が続けられていた。僕らが声を返したことが、最後の手掛かりになった。僕は姉を背負って山の下まで運べなかった。合流してからは、隊員の人たちが姉を運んでくれた。
通常道へ出る前、姉が一度だけ顔を下へ向けかけた。
「まだいる?」
僕が聞くと、姉は首を振った。
「見ないと、分からない」
姉はそこで目を戻した。僕は何と返せばいいか分からず、姉の帽子についた葉を一枚取った。帽子のつばは折れ、泥が乾き始めていた。
下山するあいだ、僕は姉の姿を何度も見失った。木が間に入り、道が曲がり、前を歩く人の体で隠れた。見えなくなるたび、すぐ追わなくてもいいと言い聞かせた。次の曲がりを越えると、姉を運ぶ人たちがいた。姉は僕を待っていたわけではなく、安全に下りるための手当を受けていた。僕にも、僕を連れて歩いてくれる人がいた。
登山口に着く頃には、空の色が変わっていた。誰かが父へ連絡したと言った。僕の電話は電池がほとんどなく、画面を開くと佐井さんからの着信の表示が重なっていた。僕は父の番号を出した。何を最初に言うか考える前に、向こうで電話がつながった。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・資料・捜索記録は創作であり、実在の登山道案内や安全指針ではありません。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。