無音の試聴室、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

怪談 n+2026 オリジナル作品

無音の試聴室|第二章 八人の向き iwa+

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舟橋会館の前庭には、植えたばかりの低い木が並んでいた。

建物の外壁は薄いベージュで、入口の大きなガラスだけが午後の日を強く返していた。旧館を覚えていない私にも、すべてが新しくなったわけではないことは分かった。自動扉の脇の石に、昭和六十三年十一月と彫られている。足元のタイルは、入口から遠ざかるにつれて色が変わった。
 沖野さんは会議室ではなく、大ホールの客席へ案内してくれた。三百六十席の椅子は灰緑色で、肘掛けにベージュの木が使われていた。舞台に緞帳は下りておらず、奥には白いスクリーンがあった。作業用の照明がついていたので、画面で見たときより奥行きが浅く感じられた。
 前から四列目に、井草さんが座っていた。膝に小型のタブレットを置き、宮坂さんの話を読んでいる。宮坂さんは自分の携帯へ話し、音声を文字へ変えるアプリの結果を彼女へ見せていた。私が挨拶すると、井草さんは顔を上げて会釈した。
「高瀬です。字幕を担当しています」
 口元を見せて、少しゆっくり言った。井草さんは分かったと答えたが、そのあと私が続けた言葉には、もう一度お願いします、と頼んだ。私は名前と用件をタブレットへ入力した。井草さんは入力された私の名前を指で追い、字幕の画面はどれですか、と尋ねた。

午後の日を返す会館のガラス入口と、色の違う足元のタイル、低い植込み。
挿絵:AI生成による架空の場面

宮坂さんは、背の高い、細い肩の人だった。黒い作業着の袖口に白いテープを巻き、そこへ小さな字で何か書いている。機材の名前かと思ったら、昼食代と領収書だった。こちらが目を向けたのに気づき、忘れるから、と言って袖を下ろした。
 最初に客席カメラを見せてもらった。内覧の日と同じ三脚へ据えられ、音声の入力は本体内蔵マイクだった。私は近くで手を一度たたき、その様子を録画した。再生すると普通に音が出た。宮坂さんは、自動的に小さな音を抑える設定はあるが、四十三秒の区間でだけ人の声も消えた理由にはならないと言った。
「故障がなかったと証明するものではないです。いまは動くというだけで」
 彼は私のメモをのぞいて、そこまで書くように付け加えた。私は「カメラ正常」を消し、「三月八日、同機で発声と手拍子の録音を確認」と書き直した。

 八人の座席と当日の役割を、沖野さんが紙に書いてきていた。彼女自身は前方の壁際に立っていたため、客席の八人には含まれない。八人のうち三人が会館職員、四人が利用団体から来た人で、残る一人が井草さんだった。宮坂さんは舞台下手の廊下におり、調整室には改修業者の担当者が一人いた。音声に残った男性の質問は、利用団体の代表をしている堀内さんのものだった。
 沖野さんは、誰か一人の記憶に合わせないよう、三月六日のうちにそれぞれへ同じ質問を送っていた。聞こえた言葉、方向、誰の声だと思ったか。全員の承諾を得たうえで、返答の該当部分を私たちへ見せた。

 資料二 内覧参加者への確認から

 堀内氏「左の入口から『まだいます』と聞こえた。宮坂さんが中へ残っていると思った。こちらから、ゆっくりで大丈夫です、と声をかけた」
 参加者B「どなたかが『出ていいですか』と言って、それに返事があった気がします。男の方か女の方かは覚えていません」
 参加者C「女の声で『います』。先に質問があったかは分かりません」
 参加者D「後ろで職員が話していると思った。皆が前を見たのでそちらを向いた」
 井草氏「声の内容は聞き取れていません。皆さんの動きで、何か始まったことを知りました。放送があったとは自分では判断できません」

 七人が同じことを聞いていたわけでもなかった。はっきりした言葉を答えられたのは三人だけで、ほかは人の声だったと思うという程度だった。沖野さんの「出ていいか」と堀内さんの「まだいます」は、両方が同じやり取りに含まれたのかもしれない。それでも、返事の相手が誰だったかについては、誰も確かめていなかった。
 井草さんは、紙を読み終えるとタブレットに短い文章を入れた。
「八人が声を聞いた、とは書かないでください」
 私はうなずき、手元のノートを開いて見せた。第一印象として書いた「全員が声へ振り向く」を二重線で消した。井草さんは、消した言葉をじっと見ていた。
「私だけ違った、とするのも変です。後ろの方も、周りの人を見て振り向いています」
 もう一度動画を見てみると、そのとおりだった。最初の一人が動いてから、最後の一人が顔を向けるまで五秒以上あった。私は八人の方向がそろうところばかり見て、その前の順序を取り落としていた。

 宮坂さんは、三月四日の自分の行動を、舞台左脇の出入口に立って説明した。館内連絡が混じるのを止めようと廊下へ出た。歴史映像に含まれている音とは思わず、誰かが廊下でマイクを使っているのだと考えた。奥から声がして、まだいますと言われたので、そちらを見に行ったという。
「ここから先は、いまは物置です」
 彼が示した先には短い廊下があり、突き当たりの少し手前に灰緑色の扉があった。扉の上半分には横長の曇りガラスが入り、扉の左上の壁に小さな赤いランプがついている。扉は閉じていて、ランプは消えていた。
「そこでつまずいたんですか」
「中へ一歩入って。椅子が、思ったより手前にあったので」
「中に誰かいましたか」
 宮坂さんは答える前に、客席に戻った沖野さんを見た。
「いなかったです。入って、電気をつけて、確かめました」
 その言い方は、本人が何度も繰り返した説明のようだった。彼は扉の曇りガラスへ手を触れようとしてやめ、名札差しのある高さを指した。物置という札は改修前から外れていたらしく、いまは中に何があるか、扉の外からは分からなかった。

 私たちはいったん客席へ戻った。井草さんが先ほどの動画について尋ねたいと、沖野さんを呼んだためだった。堀内さんが「ゆっくりで大丈夫です」と声をかけたことを、井草さんは初めて知ったという。四十三秒が終わって音が戻るまで、誰からも説明を受けていなかった。
「宮坂さんが中にいたなら、そう書いていただければよかったです」
 彼女のタブレットを読んだ沖野さんは、自分は宮坂さんが廊下にいると思っていたと答えた。宮坂さんは、中へ入ったのは声を聞いたあとで、最初の返事は自分ではないと説明した。私がその二つを文字にすると、井草さんは順番を確認してから、もう一度入力した。
「では、返事をした方は誰だったんですか」
 客席の頭上では、空調が低く動いていた。舞台の端に置いた工具箱を、改修業者の人が閉じる音がした。返答を待っている井草さんには、私たちが少しずつ別の場所を見たことのほうが伝わったようだった。彼女は質問を消さず、画面をこちらへ向けたままにしていた。

 沖野さんは確認用紙の「放送はありませんでした」という書込みを、自分がしたと認めた。館内放送の操作履歴に何も残っていなかったので、そう答えたという。放送がなかったことと、会場で声を聞いた人がいたことを、同じ欄で扱ってしまった。
「訂正を送ります。何が聞こえたかは調査中です、と」
 井草さんは、それなら分かると答えた。宮坂さんは、再び携帯を取り出し、私たちが聞こえた声について話すたび、要点を文字にした。私も途中から、アプリが誤って変換した語を直す役を引き受けた。井草さんが画面を読み終わるまで待つと、宮坂さんは途中で飲み込んだ一言を、もう一度話し始めた。
 帰る前に、私は廊下の扉を外から一枚撮影した。曇りガラスの向こうは暗く、写真には私の袖が薄く映った。赤いランプの表面には細かな傷があり、新しく取りつけたものではなさそうだった。その下の空の名札差しを拡大したとき、札を留めていたテープの内側に、黒い二文字が残っているのを見つけた。
 試聴、と読めた。

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。登場する人物、団体、場所、出来事、取材、録音、映像および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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