ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

長編 山にまつわる怖い話 n+2026

反射しない鏡 nc+

更新日:

Sponsord Link

七月の終わりだった。

東京で生まれ育った一人っ子の自分は、ほぼ毎年、夏休みを丸ごと使って母方の祖父母の家に預けられた。両親は共働きで、いわゆる鍵っ子だったから、祖父母の家に行くのはたいてい自分ひとりだった。祖父母はいつも笑顔で迎えてくれた。初孫というのは、そういうものらしい。

祖父母の家は県道沿いにあった。集落は山あいの小さな場所で、北側は切り立った山になり、その山の裾をかすめるように県道が走っている。県道沿いには商店が数軒だけ並び、その中に祖父母の家があった。山を背にすると猫の額ほどの平地があり、真ん中を川が流れている。川を渡って数分歩けばすぐ山で、県道と川はしばらく同じ方向に坂を上っていき、その先は峠になる。ここは峠までの道で最後の集落だった。

峠の名前が妙に不気味で、子ども心にも引っかかる響きだった。だからだろう、昔ながらの怪談めいた話を大人たちからよく聞かされた。ただ、怖がらせるために盛っているのか、それとも本気で言っているのか、大人の顔つきからは判断がつかなかった。笑いながら語る人もいれば、途中で言葉を切って話題を変える人もいた。

人口は五十人もいないような寒村で、遊び相手になる子どもも五、六人しかいない。自分がよく一緒にいたのは三人だった。年長者のAは中学一年で、Aの弟のBは小学六年。自分は小学五年。仲間内で唯一自分より年下だった魚屋のCは小学四年だった。

川で泳いで、カブトムシを取りに行き、林道を探検して、夕方になると祖父母の店先でラムネを飲む。東京のコンクリートの中で育った自分にとって、ファミコンがなくても退屈しない田舎の夏は、天国みたいだった。山の匂いと川の冷たさが、皮膚に残り続ける。帰るころには、東京の夜の湿気が薄く感じられるほどだった。

ただし、田舎の天国には境界線がある。いくつかの場所は、言葉ではなく態度で、近づくなと示されていた。

集落の南端、山の中に小さなお稲荷さんがある。赤い鳥居が朽ちかけていて、苔の匂いが濃い。大人たちはそこに行くなと言った。狐に化かされるとか、足を取られるとか、そういう説明はそれっぽいのに、誰も具体的なことを言わない。行くな、だけだった。

もう一つは、もっと曖昧だった。県道を峠のほうへ進むと、製材工場と墓地がある。その墓地から先には絶対に行くな、と言われた。理由は危ないから、としか聞かされなかった。確かに、当時の県道は狭く、崖にへばりつくような場所が多く、大型トラックがセンターラインを跨いで走ることもあった。子どもが歩くには危険なのは本当だ。でも、大人の声には交通事故とは別の硬さが混じっていた。口をつぐむ硬さだ。

小五の夏休み、集落に着いて二日目か三日目、自分たちは南端のお稲荷さんで肝試しをした。昼間だった。強がりで、カンカン照りの昼に行けば怖くないという理屈だった。実際、森の中は薄暗くて、北向きで湿気が溜まり、鳥の声が妙に遠かった。自分は鳥居の前で立ち止まった。Aがふざけて鳥居をくぐったのを見て、Bが笑った。Cは鳥居の外で足踏みしていた。自分はくぐらなかった。理由はわからない。くぐらないほうが正しい気がした。

それでも、何も起きなかった。帰り道、Bが舌打ちして言った。

「たいしたことねえな」

翌日、川原で昨日の肝試しのことを話していたときだった。

Bがニヤニヤしながら言い出した。

「峠のほうに行った墓の先、鎖がしてある道あるじゃん。あの先に、すげぇ不気味な家があるらしい」

Aが眉を上げた。

「家? 鎖の奥に行ったことあるけど、そんなのなかったぞ」

Cが目を丸くしてAを見た。

「Aくん、行ったことあるの? あの鎖の先は絶対行っちゃいけないって」

Aは笑って、指を口に当てる仕草をした。

「内緒だぞ」

自分は鎖の道のことを知らなかった。墓の先に鎖がある、というだけで十分に禁忌っぽいのに、Aは行ったことがあると言う。Aが言うと、禁忌は遊びの道具になる。Bもそれに乗った。

「昔はあの先に橋があったらしいんだよ。でも俺たちが生まれた頃に洪水で流されたんだって。で、あの道とは別に、川の手前から斜めに入ってく旧道があるらしい。そこに古い橋がまだ残ってるって話だぜ」

Aが訝しげに聞いた。

「誰に聞いたんだ」

Bは一瞬だけ口ごもった。誰かの名前を言いかけて、飲み込んだ。

「別の地域の奴に。いわくつきの家らしいよ」

いわくつき。その言葉は便利だ。何も説明しなくていい。説明しないほうが強い。Aが笑った。

「面白そうだな」

Bがすぐに続けた。

「今から行ってみようぜ」

Cは明らかに尻込みした。自分も怖かった。けれど、怖いから行きたいという気持ちが勝つ。田舎の夏は、暇が怖さを増幅させる。

BはCをからかった。寝小便が直らないとか、夜小便に行けないとか、子ども同士の残酷な軽口を叩いた。Cは真っ赤になって「行く」と言った。そうして四人は、県道を峠方向へ歩き始めた。

集落から歩いて十分。製材所の匂いがする。木屑と油と鉄の匂い。その先に山側へ大きな墓地がある。墓石が並ぶだけの場所なのに、空気が一段冷える。墓地を過ぎても五分ほど歩くと、右手に藪が薄くなっている場所があった。車に乗っていたら気づかないだろう。幅二メートルほど、道が剥げたように見える。覗き込むと、五メートル先に鉄柱が二本立っていて、だらんと鎖が道を塞いでいた。

Bが先に鎖を跨いだ。Aが続く。自分も続いた。Cは一瞬躊躇したが、遅れまいとして跨いだ。

鎖の先は砂利道だった。轍は消えかけ、苔と雑草が覆い、木の根が浮き出ている。少し歩くと、道は徐々に右へ曲がっていく。鬱蒼とした木々が天井のように覆い、薄暗い。カーブを曲がっていくと、緑のトンネルの先がひときわ明るく見えた。そこが川だった。

道は川で途切れていた。足元にはコンクリートの塊があり、橋台の跡のようだった。対岸にも森の中に細い道が見える。川幅は十から十五メートル。左右は木が密で見通しが利かない。水音だけが近い。

Aが肩をすくめた。

「やっぱ行き止まりじゃねえか」

Bが川を指差した。

「ほら、橋の跡じゃん。あっちにも道あるし。戻ろうぜ。旧道の目印も聞いてあるから」

引き返してカーブの付け根に戻ると、Bは道の脇を指差した。

人の頭ほどの大きさの平たい石が二つ並んでいる。一つは中心が少し窪んでいた。Bはそこに昔地蔵があったのだと言った。言い方が妙に確信めいていた。聞いた話をなぞっているというより、見たことがあるような口ぶりだった。

県道側から見てカーブの入り口、左側の濃い藪。その中に藪が薄い一本のラインが見える。獣道にも劣るが、確かに線はある。藪の中は緩い土がぬたぬたして不快な感触だが、その線の上はわずかに踏み固められているように感じた。踏まれているなら、誰かが通っている。

自分たちは藪を掻き分けて進んだ。笹で手を切りながら、土に足を取られながら。二、三分で川に出た。そこに古びた吊り橋があった。木の板が何枚も欠け、ロープは黒ずみ、鉄の金具が錆びている。にもかかわらず、橋はそこにあるというだけで道に見えた。向こう側へ行ける道に見えた。

Bがニヤけた。

「ほれ、橋だ」

Aが笑って言った。

「橋ってこれかよ。行けるか、これ」

Bは肩で笑った。

「結構丈夫そうじゃん」

Bが先陣を切って渡り始めた。ギギギギと嫌な音がする。吊り橋は揺れた。でも、落ちない。Bが向こうに着くと、Aが渡った。自分が渡った。最後にCが残った。

Cは橋の前で固まった。視線が板の隙間の黒い水に吸い込まれている。

Bが大声で煽った。

「おいC。何怖がってんだよ。俺ら渡れたんだから、一番チビのお前が渡っても落ちねえよ」

Cは泣きそうだった。いや、もう泣いていた。声を出さずに泣いている顔だった。五分ほどかけて、ようやくCは渡った。向こう側に着いた瞬間、Bが笑いながらCの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。Cは抵抗しなかった。泣き顔のままだった。

橋を渡った先も藪は薄いだけで、道とは言い難い。二、三分進むと右手から砂利道が合流してきた。流された橋の先にあった車道だろう。そこから百メートルほど、S字カーブを曲がっていくと、急に空間が開けた。広場のような場所に二軒の家があった。

森の中にぽっかり空洞があるようだった。かつては他にも数軒家があったらしい。地面が均され、草がまばらで、家の跡のような四角い輪郭がいくつも残っている。山肌が奥に迫っていて、逃げ道は来た道しかない。二軒の家は平屋建てで、道を挟んで向かい合うように建っている。どちらも明らかに廃屋で、左手の家には小さな物置があった。

広場の入り口に、古い地蔵があった。顔の凹凸が風化して薄れ、表情が消えかけている。だが、地蔵の頭から胸にかけて、赤茶けていた。塗ったようでもあり、染み込んだようでもある。誰も触れなかった。触れないのが正しいと、四人とも知っている顔をしていた。

家の玄関や窓は板で封鎖されていた。板は×印に打ち付けられている。意図がある封鎖だった。崩れたから塞いだのではない。入るなという意思だ。

Bが家の周りを歩き始めた。

「どっかから入れないかな」

Aもついて回った。自分とCは黙っていた。Cが小声で「もう帰りたい」と言った。聞こえないふりをした。聞いた瞬間に帰らなければいけなくなる気がした。

物置がある家の裏手からBが声を上げた。

「おーい」

皆で回ると、裏手のドアは鍵が閉まっているだけで、板は打ち付けられていなかった。そこだけ封鎖の仕方が違う。Bがドアノブを掴んで言った。

「兄貴、一緒に引っ張れよ」

Aはニヤリと笑って手を貸した。Cが慌てて言った。

「だめだよ、壊れちゃうよ」

Bは笑って返した。

「誰も住んでねえんだからいいだろ」

せーの、でドアノブを引っ張る。何度かやって、バコン、と音がして鍵が外れ、ドアが勢いよく開いた。AとBは勢い余って地面に転がった。Aの肘に擦り傷ができた。赤く滲んでいた。

ドアの向こうは暗かった。

懐中電灯を持ってこなかったことを、そのとき初めて後悔した。けれど、後悔のわりに誰も引き返さない。

Bが先に土足で入った。Aが続く。自分も続いた。Cは鼻を啜りながら遅れて入った。

勝手口は台所だった。土間を改築したのか、台所部分は土の床が広がっている。歩くたびに土っぽい埃が舞う。カビ臭い。空気が湿っていて重い。台所には何もない。奥に畳の部屋があった。台所と畳の境目の畳が特にひどく腐っていて、黒っぽく変色し、ぐちゃぐちゃだった。その上の鴨居には、何かでガリガリ削ったような跡がある。動物の爪痕にも見えるが、爪にしては規則的すぎる。

部屋の壁に大きな鏡が立てかけられていた。全身が写る大きさ。鏡の反対の壁には昭和四十年代のカレンダーがぶら下がっていた。日付が途中で止まっている。紙は黄ばんでいて、湿気で波打っていた。自分は数字を読もうとしたが、なぜか目が滑った。読めるはずなのに、まともに拾えない。

カレンダーの下に、幅一メートルほどの木製の重厚な葛籠があった。蓋に、黄色く変色した和紙の封筒のようなものが貼り付けてある。封筒の端が浮き、糊が弱っているのがわかる。だが、剥がそうと思うと妙に手が止まる。

Cが震える声で言った。

「もう帰ろうよ、怖いよ」

Bが笑った。

「弱虫だなぁ」

Aが軽く肩を叩いた。

「折角ここまで来たんだから」

AとBは葛籠を開けようとした。蓋を持ち上げてもびくともしない。しっかり閉じられている。鍵のようなものは見当たらないのに開かない。数分格闘して諦め、室内の散策を続けることにした。

葛籠の部屋から細い廊下が伸びている。汲み取り式の和式便所と、狭い風呂が並んでいた。風呂には灰色がかった黒い液体が固まったようなものがあり、汚い。汚いというより、時間がそこだけ止まって濃縮されたように見えた。

便所と風呂の反対側にもう一部屋和室があった。そこにも鏡があった。全身を写せる鏡。鏡の反対側の壁に小さな木箱が置かれていて、その木箱にも和紙の封筒が貼ってあった。葛籠と同じだった。

Aが嫌そうに笑った。

「うわ、まただよ。なんなんだこれ」

Bが木箱の蓋を試した。開かない。Bは何の躊躇もなく、封筒をビリッと剥がした。中に入っていた紙を取り出した。紙には黒々と一行だけ、ミミズが這ったような文字が書かれている。左下に赤黒いシミがあった。血のようにも見えるし、何かを擦りつけた跡にも見える。

Bが言った。

「なんて書いてあるんだ」

Aが覗き込んだ。

「達筆すぎて読めないな」

自分も覗いた。読めないというより、文字として形を結びかけて、すぐ崩れる。見るたびに違う線に見える。読もうとすると頭がじわじわ痛くなる。

Bが葛籠の封筒も同じか確かめようと言い、廊下を戻った。自分とCもついていった。葛籠の封筒も同じように一行の文字と赤黒いシミがあった。文字は違うはずなのに、見比べても違いが掴めない。掴めないのに、どちらも嫌だという感覚だけははっきりしている。

廊下をさらに進むと玄関に辿り着いた。玄関の壁にも鏡があった。やはり全身が写る大きな鏡。その正面に、ガラスの箱に入った日本人形が飾られていた。

Cが急に声を上げた。

「わっ」

Bが振り返る。

「なんだよ」

Cは震えながら指差した。

「あそこに、人が」

廊下からは壁の裏で人形は死角になっている。だから鏡越しに初めて見える。鏡に人形が映って、人に見えた。それだけの話だ。Bが笑って言った。

「鏡に映った人形じゃねえか」

Cは何も言えない。顔が真っ赤で、涙が頬を伝っている。

その人形の箱にも、和紙の封筒が貼ってあった。中には一行の文字と赤黒いシミがある。箱や葛籠や人形、それと鏡だけが残っている。家財道具はない。生活の痕跡が削ぎ落とされ、残すべきものだけが残されている感じがした。誰が残したのかを考えると、途端に喉が乾いた。

Bが言った。

「何もねえな。もう一軒行ってみるか」

Aが頷いた。

「そうだな」

裏口に向かって廊下を歩き出したとき、自分は何気なく玄関の鏡を振り返った。さっき鏡越しに人形が見えた場所だ。だが、おかしい。自分たちは斜め前から鏡を見ている。鏡は人形に正面を向けているわけではない。角度が合わない。今、鏡に映っているのは靴棚だけだった。人形が映るはずがない。さっき見えたこと自体が成立しない。

自分は鏡から目が離せなくなった。

そのとき前を歩いていたCが叫んだ。

「開いてる」

和室の小箱の蓋が開いていた。蓋は箱に立てかけられている。さっきまで固く閉じられて、開かなかったはずだ。AとBが顔を見合わせた。

Aが乾いた声で言った。

「え、なんで」

Bが笑いながら言おうとして、笑いが途中で途切れた。

「誰だよ、開けたの」

Bが葛籠の部屋に走って確認した。

「こっちも開いてる。開いてるよ」

Aの顔から色が消えた。

「なんだよそれ。なんで開いてんだよ」

自分は玄関へ向かった。理由はわからない。ただ、玄関を見なければいけない気がした。自分の足はぎこちなく、床の埃が舞った。玄関に着くと、ガラスの箱に人形はなかった。

人形は、玄関に立っていた。

自分は声を上げたつもりだったが、喉が鳴るだけで声にならなかった。口の中がからからで、舌が動かない。人形は立っている。倒れていない。置かれていない。立っている。足がないはずのものが、立っている。そう理解した瞬間に、頭がぐらりと揺れた。

背後でAとBが揉み合う声がした。Aが叫ぶ。

「B、やめとけ。やばいって」

Bが叫び返す。

「こんなのたいしたことねえよ」

Aがこちらに向かって叫んだ。

「おい、手伝え。早くここ出るぞ」

その瞬間、廊下に立てかけてあった鏡が突然倒れた。ガシャン、と大きな音。別の部屋の鏡も倒れたらしく、あちこちからガシャンガシャンと割れるような音が響いた。鏡の裏に、黒々とした文字がびっしり書かれているのが見えた。小さな文字が、隙間なく埋め尽くしている。内容は読めない。読もうと思った瞬間、目が勝手に逸れた。目が拒否する。拒否しているのに、見てしまっている。

その音に驚いてAの拘束が緩んだのか、Bが葛籠に飛びついた。Bは「ウオォォォ」と叫びながら暴れ、葛籠にしがみついた。AがBの肩越しに葛籠を見て、突然叫んだ。叫び声が変だった。喉の奥を引き裂くような声。Aは尻もちをつき、手足をばたつかせながら後ずさった。

Bが叫んでいる言葉は、言葉ではなかった。音の塊だった。ところどころで、同じ音が繰り返される。それが名前のように聞こえた。誰の名前なのか、自分はわからない。わからないのに、その音を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。自分の名前を呼ばれた気がした。違う、と頭では思うのに、体が先に反応する。

Aが勝手口から逃げ出した。自分とCも後を追った。廃屋の中からは相変わらずBの怒号が響き、板に打ち付けられた窓が震えていた。Aは外へ出ると、向かいの廃屋の戸を叩き始めた。板で×印に封鎖されている戸を、バンバン叩く。何かに追われているのに、なぜか別の家に入ろうとする。自分とCはAに「Bを助けて逃げよう」と必死に叫んだが、Aは聞いていない。涙と涎を垂らしながら、ただ叩き続ける。

そのとき、叩かれている向かいの廃屋の中から、別の振動と音がし始めた。Aが叩く音とは違う。家の中で何かが動いている。カタカタガタガタ、と連続する音。何かがぶつかる音。ガシャン、と割れる音。空の家の中で、誰かが怒っている。

Bのいる家を見ると、Bのそばに誰かがいた。

顔がない。いや、顔は見えた。鼻も口も、目の位置も、あるように見えた。だが、印象に残らない。見たのに思い出せない。のっぺらぼうのようだった。ただ、こちらを見ていることだけがわかった。目が合っている。目なんてあったのか、なかったのかすら判然としないのに、合っていると確信できる。確信できるのが一番嫌だった。

自分は失禁していた。気づいた瞬間に腰が抜けた。足が動かない。Cが泣き声を上げ、自分の腕を掴んだ。自分はCの手を引き、頭にもやがかかったような状態で走り出した。廃屋を背に、吊り橋のほうへ。藪を掻き分ける感触も、手の痛みも覚えていない。

次に記憶にあるのは、製材所あたりの県道を、集落へ向けてふらふら歩いている自分だ。空を見上げていた。空が妙に低かった。泣きじゃくるCの手を引いている。手が熱いのに、体は冷たい。

集落を出たのは昼前だった。往復と廃屋内の散策を含めても、一時間半程度のはずだと思っていた。だが、太陽は沈みかけていた。山々を夜の帳が包み始めるころだった。集落に着いたころには空は濃い藍色で、川の音が昼より大きく聞こえた。

こんな時間まで戻らない子どもを心配して、大人たちが集まっていた。怒鳴られた。腕を掴まれた。事情を聞かれた。自分とCは呆然としていて、うまく説明できない。口を開くと歯が鳴り、舌が動かない。それでも途切れ途切れに言った。四人で探検したこと。墓の向こうの鎖の道へ行ったこと。廃屋があったこと。中で妙なことが起きたこと。AとBがおかしくなったこと。自分とCだけで逃げてきたこと。

それを聞いた瞬間、大人たちは静かになった。怒りが消えたのではない。別のものに置き換わった。青い顔をして押し黙る大人たちの中で、ひとりだけ真っ赤な顔で自分を睨みつける人がいた。AとBの母親だった。

母親は叫びながら自分を平手打ちした。何発も。頬が熱くなり、耳鳴りがした。次にCに飛びかかろうとしたところを、大人たちに抑えられた。母親は泡を吹くように罵倒し、叫んでいた。父親は膝から崩れ落ち、小声で何かを呟いていた。言葉は聞こえなかった。聞こえないのに、意味だけが胸に落ちた。

そのとき、カブのエンジン音が近づいてきた。別の集落の神社の神主が現れた。年配の男で、普段は穏やかな顔をしているのに、そのときは目が違った。自分とCを見て、何かを嗅ぐように鼻を動かし、低い声で言った。

「何をした」

問い詰める声というより、確認する声だった。自分はその声に、責められる痛みと、助けが来た安堵を同時に感じた。矛盾しているのに、両方が本物だった。

自分とCはまともに喋れなかったので、大人たちが説明した。神主はそれを聞き終えると、ためらいなく指示を出し、自分とCを連れて裏山のお稲荷さんへ走った。昨日、昼間に肝試しをした場所だ。鳥居が暗く見えた。森の匂いが濃い。

神主は自分とCの背中に指で何かを書いた。強い力で「ハッ、ハッ」と区切るように。何を書かれたのかはわからない。わからないのに、書かれた瞬間、背骨が冷たくなった。頭から塩と酒と酢をかけられた。服が濡れ、匂いが混ざって鼻が痛い。神主に「飲め」と言われ、酒を飲み、酢を飲んだ。喉が焼けた。

神主が叫びながら背中を力いっぱい叩いた瞬間、自分は吐いた。Cも吐いた。吐瀉物は止まらない。胃の中身が空になるまで吐き続けた。吐きながら見た蝋燭の火が、渦を巻いているように見えた。目の錯覚だと思おうとしたが、渦の中心がこちらを見ているような感覚があった。

吐くものがなくなると、頭の中のもやが少し晴れた。集落に戻り水銀灯の光を浴びたとき、自分とCの吐瀉物の色に気づいた。黒かった。真っ黒ではないが、ねずみ色がかった黒。土を飲み込んだみたいな色。自分はまたえずいたが、胃は空で何も出ない。喉が痛いだけだった。

その夜、自分とCは別の集落の神社に連れていかれた。服も下着も剥ぎ取られ、境内の井戸の水を頭から浴びせられた。井戸の水は冷たかった。冷たいのに、皮膚の奥が熱くなる感覚があった。着物を着せられ、塩と酒と酢をまぶされ、本殿に通された。

神主は本殿の前で、自分とCを正面から見た。視線が重い。そこで初めて、神主が自分を怖がっているのがわかった。自分たちを助けに来た人間が、自分たちを怖がっている。子どもにはその差がわかる。わかった瞬間、底が抜けた。

神主は言った。

「AとBのことは、忘れろ」

言葉の意味がわからないふりをしたかった。でも、ふりができない口調だった。命令ではない。命令より重いものだった。

「知らなかったとはいえ、お前らは禁に触れた。あそこで見たものを、声に出すな。名前も出すな」

自分はそれでも、聞きたかった。AとBはどうなるのか。Bはまだ叫んでいる。顔のないものがいた。人形が立っていた。鏡の裏に文字があった。葛籠には何があったのか。聞きたいのに、聞くことがすでに怖かった。神主が何かを言いかけて口を閉じた。言うべきではないものを飲み込んだ、という動きだった。

その翌日、自分は東京に帰された。祖父母は黙って荷物をまとめ、駅まで送った。祖父は何も言わなかった。祖母は笑っていた。笑い方が、いつもの笑い方ではなかった。笑っているのに目が笑っていない、という陳腐な表現では足りない。笑っているのに、笑っていることが怖かった。

後で聞いた話では、Bはあの場所で死んでいた。Aは外で狂っていた。青年団がBの遺体を連れて帰ったが、その中のひとりが翌日事故で死に、ふたりが精神を病んだ。Bの死因ははっきりせず、外傷もなく病死ということになった。事件にすると、あの家が捜索される。それは避けられたらしい。AとBの母親は半年後に自殺した。父親もすぐに急死した。自分の祖父母は秋に隣町へ引っ越した。四十から五十キロ離れた場所。Cの一家も翌年、別地域へ引っ越した。

ここまでが、子どもの頃に起きた話だ。

問題は、それで終わらなかったことだ。

自分は長い間、この話を誰にもしていない。思い出すのも嫌だった。思い出すと、鏡の裏の文字が視界の端に浮かぶ気がした。黒い吐瀉物の匂いが鼻に戻る気がした。だから忘れようとした。だが、忘れたふりをするほど、体のどこかが覚えている。

三ヶ月ほど前から、夢にBが出るようになった。夢の内容はいつも同じではない。ただ、Bがどこかで自分を見ている。自分が視線を感じて振り向くと、Bはすっと隠れる。人混みの影、電柱の影、マンションの窓の外。現実でも同じだった。視線を感じる。振り向く。誰もいない。だが、いないことが安心にならない。いないのに、見られている確信がある。

さらに嫌なのは、Bの顔がはっきりしないことだ。夢の中でBはBなのに、起きると顔が思い出せない。あの廃屋で見た、顔があるのに印象に残らないやつと同じだ。自分はそこでようやく理解した。自分はBを見ているのではない。Bの名で呼ばれる何かに見られている。

ある夜、会社の帰りに新宿で乗り換えをしているとき、向かいのホームから視線を感じた。目を上げると、小柄なサラリーマンがこちらを見ていた。十八年ぶりなのに、ひと目でわかった。Cだった。Cも自分に気づいた。目が合った瞬間、Cは怯んだ顔をして、逃げるように歩き始めた。自分は人混みをかき分けて走り、Cの腕を掴んだ。

「C」

Cは怯えた顔で自分を見た。目の下に影があり、顔色が悪い。

「あぁ、やっぱり」

Cはその一言だけで、もう逃げられないという顔になった。

自分たちはできるだけ賑やかな場所へと思い、歌舞伎町の居酒屋チェーンに入った。明るい店内、うるさい笑い声、油の匂い。その中でCは震えながら水を飲んだ。自分も水を飲んだ。水が喉を通るだけで、少しだけ現実に戻れる気がした。

Cは言った。

「会っちゃだめだった」

それは命令ではなく、既成事実の確認だった。会った時点で何かが動く。動いたことがわかる。動いたのを止める方法はわからない。ただ動く。

Cは家族を失っていた。瓶の水が破裂した、とCは言った。自分はその言葉を聞いた瞬間、胸ポケットの古い傷が熱くなった。自分も大学三年のとき、同じように瓶が破裂している。ガラス片でできた傷が、いまだに残っている。傷は皮膚の上にあるのに、時々、皮膚の下から疼く。傷の理由を思い出すたびに疼く。

Cは続けた。大学時代、抑えきれずにこの話を友人にしてしまったことがある。その友人は話を聞いた翌日に自殺した。Cはそれ以来、誰とも深く関わらないようにして生きてきた。自分も同じだった。自分の周りでは、人が死んだ。祖父母も、両親も、親友も。死ぬ前に嫌な夢を見る。夢の中では、誰かが死んだあとで必ずBが出る。順番が逆なのに、後から思い出すと順番が入れ替わっている。自分の記憶の中で、死とBは結びついている。結びついたまま、ほどけない。

自分は結婚していた。子どももできていた。幸せは怖かった。幸せが続くほど、壊れるときの音が大きくなる気がした。妻にはこの話をしていない。言えば巻き込む。巻き込むのが一番怖い。だが妻は、理由を聞かずに自分の不自然な怯えを受け入れてきた。自分はそれに甘えた。甘えること自体が、どこかで罪だと思っていた。

Cは辞表を出したと言った。逃げたいのに逃げられない。逃げるために仕事も捨てる。自分も同じだった。自分は有給を取った。行くしかないと思っていた。あの場所に。行けば何かが終わる。終わるのが自分の命でもいいと思っていた。自分の周りが死に続けるより、自分が終わるほうがいい。そう考えること自体が、何かに誘導されている気がした。

その夜、Cと別れたあと、自分は帰宅して眠れなかった。部屋の中が妙に広く感じた。鏡が怖くなって、洗面所の鏡に布をかけた。布の下から自分の顔が見えそうで、結局布を外した。外したら外したで、鏡の中に自分が映っていることが嫌だった。自分が映っているのに、自分が見られている感じがする。鏡という道具の性質が、あの廃屋のせいで歪んだままだった。

翌朝、胸ポケットの傷がまた熱くなった。

傷は古いのに、熱い。水を飲んでも熱は消えない。自分は思った。熱は自分の体のものではない。自分の体に乗っかった何かの温度だ。

自分はあのとき、神主に言われた言葉を思い出そうとした。だが、そこだけが思い出せない。忘れろと言われたのに、忘れろと言われた部分だけが残っている。禁忌はそういう形で残る。

ひとつだけはっきりしているのは、あの廃屋の中で成立しなかった反射のことだ。映るはずのないものが映っていた。見えるはずのない位置から見えていた。あれは錯覚ではなく、現実側が歪んだ証拠だと、今の自分は思う。歪みは元に戻っていない。戻っていないから、今も見られる。今も呼ばれる。呼ばれているのがBなのか、Bの名で呼ばれるものなのか、その区別はつかない。区別がつかないことが一番怖い。

あの日、四人であそこに入った。二人は戻らなかった。二人は戻った。戻った二人は、戻ったままではいられないまま生きた。生きることが罰になる形で。

自分はこの話を、いま書いている。書くことで何かが動くのか、動かないのか、それすらわからない。だが、書いている最中、背中が時々冷たくなる。指で文字を書かれた場所が、薄く疼く。振り向いても誰もいない。誰もいないのに、そこに立っている感じがする。

鏡ではない場所に、反射がある。暗いガラスでもない。窓でもない。自分の視界の端に、たしかに何かが映る。映るはずのない角度で。

自分は、その反射を見ないようにしている。見ないようにしているという行為そのものが、誰かに見られている合図になっている気がする。

見ないようにするほど、見られる。

そして今、なぜか思い出せる。あの廃屋の玄関で、人形が立っていたとき、足元に何があったのか。自分は当時、そこまで見ていない。見ていないのに、今はわかる。靴が揃っていた。小さな泥のついた靴が、玄関にきちんと揃っていた。四人の誰の靴でもない。大人の靴でもない。子どもの靴だ。自分たちは土足で入ったのに、その靴だけが、外に置かれたみたいに綺麗に揃っていた。

揃っていることは、誰かが揃えたということだ。

揃えたのが誰かは、どうでもいい。誰かが、という事実が残る。誰かがそこにいた。今もいる。あのときだけではない。今も。

Cと自分が会ってしまったのも、偶然ではない気がする。向かいのホームで目が合った瞬間、Cの口が動いた。声にはならなかったが、確かに動いた。自分も同じだった。言ってはいけない名前を、互いに同時に言いかけた。喉の奥で止めたのに、止めた感覚がなかった。止めたのは自分ではなく、別の何かだった。

だから、これで終わりではない。

終わりにできない。

終わらせるために何かをする、という発想自体が、すでに関与だ。関与した時点で、こちらの負けだとわかっている。わかっているのに、関与せずにはいられない。呼ばれている。呼ばれているという言い方も違う。もう名前を知られている。名前を知られているから、こちらが何もしなくても、向こうは動ける。

そのとき初めて、自分は理解した。あの家の禁忌は場所の禁忌ではなかった。行ってはいけないのは場所ではなく、関わり方だった。覗くこと。触ること。読もうとすること。開けようとすること。笑うこと。強がること。助けようとすること。逃げること。忘れようとすること。

全部、関与だ。

関与した瞬間、向こうはこっち側に入ってくる。

いま自分がこの文章を書いているのも、関与だ。

書き終えたあと、自分はこの画面を閉じる。閉じた瞬間に、背中が冷たくなる気がする。冷たくなったとき、自分は振り向くだろう。振り向いたら、見えるだろう。見えるはずのない角度で。映るはずのない反射で。

それが自分の顔なのか、Bなのか、顔のない誰かなのか、区別はつかない。

区別がつかないまま、目だけは合う。

それだけは、あのときと同じだ。

(完)

[出典:1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/09(土) 16:40:44.58 ID:8Bp+h5fP0/《昔田舎で起こったこと》オマージュ作品]

📚 この怪談の続きは、Kindleで

伝聞怪談コンプリート合冊

サイト未公開の話を多数収録。Kindle Unlimitedなら追加料金なしで読み放題。

【合冊版】558ページ・100円のお得セットあり

伝聞怪談1 伝聞怪談2 既刊6冊

Sponsored Link

Sponsored Link

-長編, 山にまつわる怖い話, n+2026

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2026 All Rights Reserved.