夜の研究室で、私は実験データを整理していた。
テーマは、人間の判断がどれほど簡単に歪むか。代表性ヒューリスティックと連言錯誤。人は確率ではなく、それっぽい物語で世界を理解してしまうという話だ。
作業は単調だった。数値を並べ、反応時間を揃え、被験者の選択傾向をグラフに落とす。自分が扱っているものが、日常の判断を静かに裏切る仕組みだという実感は、もう薄れていた。理論は理解している。だから笑える。そう思っていた。
その晩、研究棟の裏口が半開きだった。
清掃員のミスだろうと、即座に判断した。夜の研究棟に人がいるはずがないという前提が、自然に立ち上がる。
廊下には、消毒液と古い紙の匂いが漂っていた。
遠くで一度だけ、ゴミ袋を引きずるような音がして止んだ。
私は無意識のうちに、物語を作った。
夜。研究棟。裏口。音。
つまり、不審者。
さらに、数日前に読んだ新聞記事が頭をよぎる。研究施設に侵入し、薬品を盗もうとした男。黒い服。フード。手袋。
思考は一気に形を持った。
侵入者がいる。
侵入者は薬品狙いだ。
侵入者は今、この廊下にいる。
分かっている。連言錯誤だ。「侵入者がいる」より「侵入者がいて、薬品狙いで、今ここにいる」方が確率は低い。それでも、その方が完成した話に感じられる。脳は完成度を好む。
私は自分の判断を、どこか教材のように眺めながら、懐中電灯を持って廊下に出た。
自覚があるから大丈夫だと、どこかで思っていた。
研究室のドアを開けた瞬間、背後の空気が変わった。
冷房でも換気でもない。人の体温が近づいたときの、わずかな湿り。
振り返る前に、私は次に脳が作る像を予測してしまった。
黒い服の男。
そう思った自分が可笑しくて、同時に腹立たしかった。それでも、振り返った。
そこにいたのは、白衣の男だった。
胸ポケットに病院名の刺繍がある、ありふれた白衣。五十代前後。短く整えられた髪。穏やかな目。手には何も持っていない。
暴力や侵入を連想させる要素が、どこにもない。
私は安心した。
正確には、安心させられた。
白衣は安全の記号だ。医師は助ける側の物語を背負っている。代表性ヒューリスティックが、今度は私を守る方向に働いた。
男は静かな声で言った。
「すみません。ここ、心理の研究室で合ってますか。」
「はい。そうですが。」
「探し物があって。人の判断の研究です。連言錯誤、でしたよね。」
専門用語が出た瞬間、警戒が一段落ちた。関係者だ。内部の人間だ。
胸の刺繍を見て、私は頭の中で説明を完成させる。
臨床の医師。共同研究。資料を取りに来た。
侵入者という仮説は、あっさり消えた。
「どの資料ですか。」
男は笑った。
「被験者リストです。最近実験に参加した人たち。名前と連絡先がまとまっているもの。」
背骨の奥が冷えた。
共同研究でも、個人情報は簡単に動かない。倫理審査が必要だ。
「それは渡せません。正式な手続きが必要です。」
男は表情を変えなかった。怒りも焦りもない。
それが、妙にそれっぽかった。
「では、あなたの分だけでいいです。」
「私の分、とは。」
「あなたの住所と、家族構成と、生活パターン。」
言葉が、空気の重さを変えた。
私は声を失った。
男は穏やかなまま続けた。
「怖がらないでください。あなたが今、どんな物語を作っているか分かっています。黒い服の男。刃物。脅迫。そういう話。」
喉の奥で息が詰まった。
見透かされたのではない。実際に、その通りだった。
「違います。」男は首を振った。「私はそういうタイプじゃない。あなたの脳が、代表性で判断しているだけです。」
「何が目的なんですか。」
「目的を一つに決めると、人は安心します。だから連言を作る。」
男は私の机の上に目を落とした。散らばったプリント。走り書きのメモ。連言錯誤の説明文。
紙の端に、男の指が触れた。
「実際はもっと単純です。私はここに入れた。あなたがドアを開けた。それだけです。」
私は後ずさった。スマホに手を伸ばしたが、指がうまく動かない。
「選択肢をあげます。」
男の声は低かった。
「今、大声を出して廊下に走る。助けを呼ぶ。私は逃げるかもしれない。逃げないかもしれない。」
「……。」
「もう一つ。あなたが数日、自分の研究で一つの質問に答える。人はどんな条件で相手を信じ、どんな条件で疑うのか。あなたはそれを知っている。だから使いやすい。」
私の脳は、また物語を作り始めた。
この男は危険な犯罪者だ。心理学を悪用している。
犯罪者という言葉が、頭の中で心地よく収まった。敵がはっきりするからだ。
男は、それを遮った。
「そのラベルは楽でしょう。敵は外にいる。あなたは被害者。分かりやすい。」
廊下の方を見る。
「でも、私は何も壊していない。鍵も開けていない。あなたが開けた。」
その言葉が、耳に残った。
私は必死に現実的な確認を並べた。白衣。病院名。穏やかな声。手ぶら。
全部、安全の記号だ。事実ではなく、意味づけだ。
「あなたが扱ってきたのは実験じゃない。」
男は言った。
「人間の弱点の設計図です。」
「出ていけ。」
震える声で言った。
男は頷いた。
「今日は出ます。何を信じるかを見たかっただけです。」
男は静かに廊下へ下がり、姿を消した。足音はしなかった。
私はドアを閉め、鍵をかけ、机に崩れた。警察に電話をしようとして、手が止まる。
何を言えばいい。
白衣の男。穏やか。脅迫とも言えない会話。侵入経路不明。証拠なし。
話として成立しない。
そのとき、内線が鳴った。総務だった。
「病院から連絡がありまして。夕方、先生の研究棟にいた可能性のある患者がいます。精神科の保護入院を拒否して逃走しました。」
「……患者。」
「白衣を盗んで着ている可能性があります。穏やかで礼儀正しく、専門用語を使うそうです。」
私は受話器を握りしめた。
逃走患者。筋が通る。分かりやすい敵。
その瞬間、私は安心している自分に気づいた。
机の上のプリントに視線が落ちる。
実験シナリオの例文。
「Aである」より「AかつBである」の方が、人はありそうだと感じる。
私は理解した。
あの男が欲しかったのは、情報ではない。
私が自分の弱点を理解しているという事実。それでも避けられないという証明。
裏口が半開きだったことを思い出す。
侵入者という物語を、私は即座に採用した。
そして今、逃走患者という物語を採用している。
どちらも確率ではない。納得だ。
時計の秒針が響く。
鍵はかかっている。安心の記号は揃っている。
それでも、スリガラスの向こうに白い影が映った。
影は、こちらに向かって、ゆっくりと手を振った。
私は立ち上がれなかった。
脳がまた、物語を作り始めたからだ。
鍵はかかっている。だから安全だ。
それが代表性だと知っているのに、知っていることは、何の役にも立たなかった。
(了)