短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 山にまつわる怖い話 怪談 n+2026 オリジナル作品

名前を植える山 iwa+

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フリーカメラマンの梶原から聞いた話だ。

怖いというより、後から体温が下がる類の話だ。

梶原は風景専門で、観光地よりも地図からこぼれ落ちた場所を好む。消えかけた集落、閉鎖された施設、記録に残らない空白地帯。本人は「風景の変遷を撮っているだけだ」と言うが、対象の選び方は一貫している。人の手が引いた直後の場所だ。

三年前、山間の旧道沿いに残る廃れた高原施設を撮りに行った。かつては避暑地として賑わったが、今は看板も色を失い、立ち入り禁止の鎖も切れたまま放置されている。管理の主体が曖昧な、空白のような場所だった。

昼のうちに外観と内部を一通り押さえた。帰路につく頃には日が落ち、スマホは圏外。車までは大した距離ではないはずだった。だが夜の山は距離と方向を均質化する。曲がり角はどれも同じ角度に見え、木立は等間隔に並ぶ。道が記号になる。

雨が来た。雷が近い。踏み跡は薄れ、ガードレールは途切れ、いつの間にか「道」は機能を失っていた。引き返そうとしても、戻る基準がない。梶原は傾斜の緩い方向へ降り、低い石積みの壁に出た。内側は窪地で、草は不自然に短い。管理されていないのに、整っている。

窪地の奥に半壊したビニールハウスがあった。骨組みだけが残り、シートは裂けて垂れている。雨をしのぐため中へ入った。

湿った土の匂いが濃い。黒いポットが無数に並んでいる。苗床のようだが、サイズが揃いすぎている。間隔も一定だ。土は均され、列は歪みがない。放置ではなく、完了に近い配置だった。

ポットの縁に白い札が刺さっている。園芸用の名札だ。ライトを当てる。植物名ではない。人名だ。よくある姓と名が、同じ筆跡で続く。年代も品種も記号もない。ただ名前。

古い札は湿気で波打ち、土に汚れている。だが一部は新しい。紙は白く、インクは濃い。昨日挿したように立っている。

名前の横に小さな数字が書かれている札がある。五、十、十五。二十、三十。刻みが揃っている。カレンダーの目盛りのようだ。百を超える数字も混じる。

雨音で外界は消え、ライトの輪だけが浮く。足元の土が柔らかいことに気づく。粘土でも腐葉土でもない。湿った砂のようで、踏むと沈み、靴底に絡む。表面に白い粒が混じっている。石か骨か、判別できない大きさだ。

出ようとした瞬間、裂けたシートが風で煽られ、顔に張り付いた。視界が白く歪む。無意識にポット列の間へ足を踏み入れた。

足首に触れた。冷たい。細い。濡れた草とは違う。絡むのではなく、掴むに近い。反射的に飛び退き、ライトを下へ向ける。何もない。ただ、土の表面に浅い筋が一本走っている。自分の靴の向きと平行だ。

その拍子に札を倒した。倒れた札の文字にライトが当たる。自分の名前があった。漢字まで一致している。横の数字は「五」。

恐怖より先に拒否が来たと言う。荷物を抱えたままハウスを飛び出し、雨の中を走った。方向は関係ない。列から離れることだけを優先した。

一時間近く彷徨い、林道に出て夜勤の工事車両に拾われた。警察に届けても「私有地の廃施設」で終わる。翌日戻ろうとしても辿り着けなかった。地形が合わない。石積みの窪地が見つからない。

数週間後、世話になっていた編集者が急死した。前日まで仕事をしていた。持病はない。診断は心不全。葬儀で遺影の横に立つ名札を見たとき、白い札の筆跡が重なった。編集者の名前。数字は「十」だった。

梶原は調べた。行政資料、観光史、地元掲示板、山の管理区分。出てくるのは避暑地の興亡ばかりだ。ハウスの記録はない。山を越えた町の古い写真館に行き、廃施設の写真を見せた。店主の老人は嫌な顔をした。

「あそこ行ったのか」

老人は水を飲み、言った。

「あれは苗床じゃない。名前を植える場所だ」

何のためかと問うと、「ためだ」とだけ返す。溜める、貯める、留める。意味は固定しない。

この辺りは昔から人が消える。事故でも病でもない消え方で、理由が空白になる。空白が続くと、説明が欲しくなる。誰かが考えた。減る分を前もって決めておけば、空白は予定になる。名前を土に挿し、数字を添える。日数だ。順番が狂っても、最後は辻褄が合う。

誰が決めるのかと問うと、老人は首を振る。

「名を挿すだけじゃない。土を作る。そこは言わん」

最後に言った。

「札を見たなら外に出すな。写真もメモも。見せれば増える。増えた分だけ減る」

梶原はデータを処分したと言う。彼にしては不自然なほど徹底していた。

俺は確認した。

「お前の数字は」

「五」

半年後、梶原は山へ行かなくなった。国外もやめた。理由を問うと、煙草を踏み消しながら言った。

「減り方が見える。偶然で片づけられる数じゃない」

そこで終わるはずだった。だが梶原は俺を見て苛立った。

「お前、何か知ってるな」

知っていた。完全に同じ形ではないが、似た話をネットで見たことがある。山の苗床。白い札。名前。日数。土の感触。作り方に触れた書き込みもあった。消し方まで。具体的すぎて、逆に作り話に見えた。

当時、その呼び名が付いていた。

「《名植え》」

俺が言うと、梶原は一瞬だけ呼吸を止めた。次に、笑った。怒りに近い笑いだった。

「外に出てる。まだ増やしてるやつがいる」

その晩、俺は家に帰ってから、何気なく自分の名前を検索した。事故死の記事が一件出た。同姓同名。年齢も近い。数字は載っていない。

画面を閉じる前、ふと気づいた。

あの書き込みには、こうも書いてあった。

名前は、読むたびに根付く。

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

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