祖母はいわゆる「みえる人」だった。
子どもの頃、私はその祖母から、夜ごと聞かされる怖い話や不思議な話を子守唄代わりに育った。その中でも、今もはっきり覚えている話がある。
商売人冥利につきる話だと、祖母は言った。
私の実家は、今ではただの駐車場だが、かつては小さな商店だった。酒、煙草、菓子、日用品。田舎の集落に一軒だけある、いわゆる何でも屋だったという。
店を始めたのは曽祖父だ。幼い頃から丁稚奉公に出され、暖簾分けを許されて地元に戻り、たった一代で店を築いた。商才があったのだろう。客は途切れず、毎日同じ顔が決まった時間に訪れたそうだ。
だが、曽祖父は早くに死んだ。病だった。
店は長男である祖父が継ぐことなく閉められ、家は農家に戻った。
祖母が嫁いできたとき、店はもうなかった。ただ、土間だけが妙に広く残っていた。
「それでもな、ときどき来る人がおったんよ」
祖母がそう言ったのは、玄関先に立つ一人の男のことだった。
祖母が嫁に来て数ヶ月が過ぎた頃、夕方になると、畑仕事を切り上げて帰宅するのが日課だった。ある日、家の前まで戻ると、玄関の前に白髪交じりの初老の男が立っていた。
声をかけても返事はない。
視線も合わない。
男はそのまま、歩き去った。
それが最初だった。
それからも、その男はときどき現れた。必ず夕方、同じ時刻。玄関の前に立ち、何も言わず、しばらくすると消える。
二度目に見たとき、祖母は気づいた。
この人は、生きている人ではない。
男は分厚い緑色の半纏を着ていた。季節外れだった。
そして、去るとき、煙のように輪郭がほどける。
祖母は声をかけなくなった。
見えることを知られるのが嫌だった。
ある夕方、祖父と並んで外に出たとき、その男はまた立っていた。
そのときだった。
祖父が立ち止まった。
「あ」
間の抜けた声を出し、祖父は男を見ていた。
確かに見ていた。
男は、初めて表情を変えた。懐に手を入れ、一合徳利を取り出し、祖父に差し出した。
祖父はためらいもなく受け取り、家に入った。
すぐに戻ってきた。徳利には酒が満たされていた。
「煙草は切らしとる。すまん。また入れとく」
震える声でそう言い、徳利を返す。
男は小銭を差し出した。
「いつもおおきに」
その声を残して、男は消えた。
祖母は動けなかった。
祖父は何事もなかったかのように寄り合いへ出ていった。
夜、祖母は祖父に尋ねた。
「あの人、見えとるん?」
祖父は一瞬黙り込み、ため息をついた。
「白昼夢じゃ」
幽霊は祟るものだ。
あれは祟らない。
酒を一合、煙草を三本。
それだけを買いに来る。
だから夢だと。
祖父はそう言い切った。
祖母は気づいていた。
祖父が、何度もあの男に会っていることを。
そして、毎回同じものを渡していることを。
「親父が店をしよった頃の常連や」
祖父はそう言い、懐から一枚の小銭を出して神棚に供えた。
酒一合分には、到底足りない金額だった。
それからしばらくして、祖父は出稼ぎに出た。
その日を境に、男は現れなくなった。
祖母は、少しだけ安堵したという。
それから二十年近くが経った。
先日、定年を迎えた父が言い出した。
「商店、もう一回やらんか」
冗談だと思った。
だが父は、具体的な話をしていた。
営業時間。
夕方から夜にかけて。
酒と煙草を置く。
一合と、三本。
「なんでその数なん」
私が聞くと、父は首をかしげた。
「知らん。なんとなく、や」
そのとき、祖母は何も言わなかった。
ただ、仏壇に手を合わせ、曽祖父の写真を見ていた。
その夜、私は夢を見た。
玄関の前に、あの男が立っていた。
緑の半纏。
懐から徳利を出す。
私の手には、いつの間にか酒があった。
「いつもおおきに」
目が覚めると、枕元に、小銭が一枚落ちていた。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「凪 ◆gRc5iHyE」 2018/12/20]