山に分け入って歩いているうちに、思っていた以上に足が重くなった。
天気は悪くない。風もない。だが距離の感覚だけが狂っていて、いつの間にか、ここまで来ていたのかと何度も立ち止まった。
少し開けた場所に、切り株があった。新しくはないが、腐ってもいない。苔もほどよく乾いていて、腰を下ろすには都合がいい。私はためらわずに座った。
妙にしっくりきた。
高さも、角度も、まるで最初から自分のために用意されていたようだった。重心がすっと落ち着いて、足の疲れが一気に抜けた。しばらく立ち上がる気が起きなかった。
そのときだった。
「俺の場所なんだがな」
耳元で、しわがれた声がした。近い。吐く息が当たった気がして、反射的に肩をすくめた。
振り向いても、誰もいない。
獣の気配も、人の足音もない。風さえ動いていなかった。
慌てて立ち上がると、さっきまで心地よかった切り株が、急に硬く、冷たく見えた。座っていたはずなのに、そこに触れた記憶だけが、曖昧だった。どれくらい休んでいたのかも分からない。
私は何も言わず、その場を離れた。
振り返らなかった。
帰り道、同じ場所を通ったはずなのに、あの切り株は見当たらなかった。地面は平らで、腰掛けられそうなものは何も残っていなかった。
ただ、自分のズボンの尻だけが、湿った苔の跡で汚れていた。
[出典:40 :熊叉奇 ◆TAPy3blMsc :2006/10/14(土) 20:48:43 ID:DMe34eiu0[st_af name=""]]