これは、知人が語ってくれた奇妙な話である。
彼が体験したその出来事は、いまだに説明のつかない記憶として彼の心に残っている。
五、六年ほど前の初夏のことだ。知人が所有している地方の別荘を貸してもらえることになり、彼と当時の恋人は車で小旅行に出かけた。観光地を巡りながらの気ままなドライブ。道中で寄り道を重ねているうちに、予定よりも遅い時間になってしまった。助手席の彼女は昼間のはしゃぎっぷりが嘘のように静かになり、あたりも徐々に薄暗くなっていく。窓の外には紫色に染まる海と空、そして風の気配だけが存在していた。
その頃、二人は海岸沿いの国道を走っていた。対向車もほとんどなく、まばらな街灯がぽつぽつと灯る寂しい道。そんな中、彼女が突然「あ、おめん屋さんだ」と声をあげた。視線の先には、小さな屋台がぽつんと現れていたのだ。
近づいてみると、それはボロボロに朽ち果てたドライブインの駐車場に佇む、奇妙な移動式の屋台だった。リヤカーを改造したその屋台には、お面がぎっしりと並んでいる。「変わってるね」と彼女は興味をそそられた様子で覗き込んでいる。特に変わった点は、屋台に並ぶお面の異様さだった。普通ならアニメキャラクターや子供向けの明るいデザインが多いはずだが、そこにあるのはどれも薄ら笑いを浮かべたような無表情な顔。しかも素材も独特で、つや消しのゴムのような質感をしている。どこか不気味で、目を逸らしたくなる代物ばかりだった。
屋台の奥には、一人の老婆が座っていた。老婆は小柄な背中を丸めており、振り向くまでその顔が見えなかった。そして「こんばんは」と彼女が声をかけると、ゆっくりと振り向いた老婆の顔には、あの不気味なお面がしっかりと貼り付いていたのだ。
老婆のしゃがれた声が「お客さんかい」と問うたが、その声はどこか聞き取りにくく、仮面の内側から漏れているようだった。彼女は何とか話を合わせようとしたが、結局気に入るお面がなかったため、何も買わずに帰ることにした。
二人が車に戻ろうとしたその時、突風が吹き抜けた。屋台の風車が激しく回り、壁に飾られていたお面が一斉に地面に叩きつけられた。その瞬間だった。屋台の正面にかかっていた一枚のお面だけが、不自然な動きを見せたのだ。それはまるで自ら意思を持っているかのように、屋台の奥へ滑り込んで消えた。そして、そこに小さな扉が現れ、静かに閉じられたように見えた。
異様な光景に、二人は息を呑んだ。散乱するお面、静まり返る屋台。だが、次の瞬間、屋台全体が小刻みに震え始めたのだ。木製の骨組みがギシギシと軋む音が周囲に響き、まるで屋台そのものが何か生き物のようにうごめいているかのようだった。
老婆はその間、一切動かなかった。ただ俯いたまま、じっと静止している。お面の裏の表情がどのようなものか確かめる勇気は、二人にはなかった。
「早くここを出て…」と彼女が震える声で促した。彼はアクセルを踏み込み、屋台を背にしてその場を急いで離れた。バックミラーに映る屋台が小さくなるにつれ、二人の心臓はようやく動きを取り戻し始めた。そして、次のカーブを曲がったところで、ついにその不気味な屋台は視界から消え去った。
その数日後のことだ。どうしても真相を確かめたいという思いに駆られた彼は、昼間なら安全だろうと彼女を説得し、もう一度あの場所へ向かった。しかし、そこには何もなかった。ボロボロのドライブインの駐車場だけがぽつんと広がっている。屋台があった形跡すら消え失せていた。
代わりに見つけたのは、地面に散らばる何枚かのお面だけだった。それらは全て、あの日の不気味な無表情のお面と同じ材質のものだった。彼が足を止めてそれを拾い上げようとした瞬間、彼女が鋭く叫んだ。「やめて!」その声には、恐怖が滲んでいた。
結局、お面に触れることなくその場を立ち去った。だが、その後も彼はふとした時に、あの屋台の光景を思い出してしまうという。あの屋台は本当に実在していたのか、それとも何か異界からの迷い人だったのか。その答えは、誰にもわからない。
(了)
[出典:903 本当にあった怖い名無し 2006/05/10(水) 21:04:09 ID:jtOQPz+T0]