父が亡くなった時、私はただ呆然と葬儀の準備をしていた。
悲しみや後悔よりも、ひとつの事務的な流れの中で身体を動かしているだけだったと思う。火葬を終え、四十九日の法要までの間、私の役目は遺品の整理だった。父は某テレビ局に長年勤めていた人間で、押し入れや倉庫の奥には膨大な台本、企画書、カメラワークの指示書、そして雑記帳のようなノートが積み上げられていた。
整理の最中、私はその中から一冊、革張りの手帳を見つけた。日記と書かれていた。父は几帳面な性格ではなく、記録を残すよりも現場で即断するタイプの人間だったと私は思っていた。だからこそ、その日記帳を手にした時、妙に胸がざわついた。
ページをめくると、業務日誌のように撮影現場や出演者、食事の内容などが淡々と綴られていた。だが、ある箇所で私は指を止めた。文字の筆圧が強く、行間も乱れている。読んだ瞬間、背中が粟立つのを覚えた。そこには、不可解な映像に関する記録が残されていた。
――それは私がまだ小学生の頃、父から直接聞かされたことのある話でもあった。けれど子供心に、半ば作り話だと思って笑い飛ばしていた。だが、今になって日記の文字と共に思い返すと、あの時の父の焦った顔が鮮明に甦った。
***
あれは父が地方ロケに出ていた時のことだという。旅番組の収録で、有名な蕎麦屋に行く予定があった。ありふれた企画で、観光地を巡り、最後に蕎麦を食べる。そんな構成だったらしい。
その道すがら、風情のある路地を見つけたスタッフが「ここを通って行けば絵になる」と提案した。父も賛成し、進行役のタレントが歩く様子を撮影した後、路地だけの画を撮ろうとした。
カメラが回っている時だった。短い髪に赤いロングスカートを履いた女性が、曲がり角から現れたのだ。スタッフたちは一瞬「エキストラか?」と混乱したが、そんな手配はしていなかった。
カメラを止めようとした時、カメラマンが妙なことを言った。
「あそこ、角なんてありましたっけ?」
路地は分岐のない直線。つまり、角など存在しないのだ。全員が顔を見合わせる間に、女性は路地の中央を歩いていた。振り返ると、もういなかった。消えたのだ。
父はカメラを回し続けるように指示したらしい。そのおかげで、女性の姿が記録されていた。
編集室で映像を確認した時、スタッフ全員が声を失ったという。女性は確かにこちらへ歩いてくる。しかし次の瞬間、身体がふっと浮き上がり、まるで上空から引き上げられるように掻き消えた。消える直前、女性の頭上から黒い影のようなものが降りてきて、両腕で彼女を抱え込むように見えた、と父は記していた。
その場にいた者たちは慌てて空を見上げたが、晴天の青空に雲が少し浮かんでいるだけ。ヘリも鳥もいなかった。消えた地点を調べると、そこは曲がり角ではなく、古びたブロック塀が立っているだけだった。
父は地元の住人に聞き込みをしたが、誰一人としてその路地にまつわる怪異を語ろうとはしなかった。全員が「そんな話は聞いたことがない」と口を揃えた。しかし日記にはこうも書かれていた。
――彼らは嘘を吐いていた。
父は、人の言葉の裏を読むのが得意な人間だった。取材で鍛えられた観察眼なのだろう。だからこそ、その沈黙の不自然さに気づいたのだと思う。
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問題の映像は、結局放送されることはなかった。通常の番組は予定通りオンエアされたが、女性が消えた映像は別枠の心霊特番用に回され、さらにそのままお蔵入りになったらしい。
日記の最後には奇妙な言葉が残されていた。
「映像は局の倉庫に眠っている。だが、あれを放送してはいけない」
その理由は書かれていなかった。ただ「見た者がいる限り、あの女もまた現れる」という一文だけが残っていた。
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私は日記を読み終えた後、胸の奥が重く沈んだ。そんな映像が本当に存在したのか。もし父の言う通り局に眠っているのなら、今でも確認できるはずだ。だが、確かめたい気持ちと同時に、見てはいけないという父の言葉が頭にこびりつく。
その夜、夢を見た。狭い路地を歩いていると、前方に赤いスカートの裾が揺れていた。呼び止めようと声を出した瞬間、彼女は空に引きずり上げられ、消えた。頭上には、腕のようなものが無数に蠢いていた。
目を覚ますと、窓ガラスに長い指の跡が曇って残っていた。外はまだ夜明け前だった。
父が最後に書き残した警告が、今になって理解できる気がする。あの女は映像だけの存在ではなく、確かに「こちら側」にも触れてくるのだ。
だから私はこの話をこうして書いている。もし誰かが同じものを見たなら、どうか無闇に確かめようとしないでほしい。
父の日記は、あの一文で閉じられていた。
――「消えるのは、彼女だけではない」
[出典:312 :本当にあった怖い名無し:2007/10/18(木) 12:30:57 ID:0SfMvRiV0]