今でも、母がその夜のことを語り始めると、仏壇の蝋燭は必ず細く揺れる。
風がないときでも、炎だけが呼吸を思い出したように縮み、伸びる。
誰かが、耳を近づけているような揺れ方だ。
子どもの頃、私はそれを気に留めなかった。
蝋燭は揺れるものだし、古い家は隙間風が多い。
そういう理屈で済ませていた。
けれど今は違う。
あの揺れは、母の身体のどこかに残ったものが、言葉に反応している。
そう思えてならない。
母は若い頃、都内の小さな印刷会社で事務をしていた。
蛍光灯は常に薄暗く、空気は紙とインクの湿り気を含んで重かった。
女ばかりの職場で、午後になると誰もが無言になり、機械の音だけが規則正しく流れていた。
その中に、一人だけ浮いた存在がいた。
黒髪を肩に垂らし、背中を丸め、ほとんど喋らない女。
話すときは、喉の奥で何かが擦れるような声をしていたという。
「ヤクザの愛人らしい」
そんな噂が、誰の口からともなく回っていた。
母は噂を信じていたわけではない。
ただ、関わらないほうがいいと判断しただけだった。
ところが、その女は、なぜか母にだけ執着した。
昼休み、母が弁当を広げると隣に座る。
トイレに立てば、廊下で待っている。
視線を合わせると、小さく頭を下げて「少しだけ」と言う。
「話を聞いてほしい」
それだけだった。
愚痴でも、相談でもない。
内容を語る前に、いつもそこで止まった。
母は断り続けた。
自分には余裕がない。
関わるべきじゃない。
それは冷酷な拒絶ではなく、日常的な自己防衛だった。
その日の夕方も同じだった。
退勤間際、女が母の机の前に立った。
俯いたまま、「今夜だけ」と呟いた。
母は、椅子を引き、「用事があるから」と言った。
女は顔を上げず、「そう」とだけ答えた。
その声が、異様に軽かったと、母は後になって言った。
帰り道の記憶は曖昧だという。
都電の音、排気ガス、十一月の冷たい夜気。
いつもの帰路なのに、背中のどこかが落ち着かなかった。
二階の奥の部屋。
廊下の蛍光灯が一つ切れていて、暗がりが伸びていた。
母は仏壇に手を合わせ、供えた煎餅を一枚下げた。
そのときだった。
「コン」
背中に触れるような、軽い音。
玄関のほうからだった。
時計を見ると、九時を少し回っていた。
誰も来る予定はない。
声をかけても、返事はない。
畳に落ちる影が、わずかに揺れた。
もう一度、音。
今度は連なって、ノブがわずかに動いた。
母は居留守を決め、仏壇の前に戻った。
だが、静けさは続かなかった。
激しい連打。
叩く音。
そして、金属を噛むような声。
「あけて」
「あけてよ」
友達、という言葉は、途中で砕けていた。
その声を聞いた瞬間、母は理解した。
昼間の女の声と、同じだった。
ノブが乱暴に回され、次の瞬間、雨戸が鳴った。
窓の外からだった。
二階には、足場になるものなどない。
母は布団をかぶり、身を丸めた。
叩く音は続き、叫び声が混じった。
見て。聞いて。
その言葉だけが、意味を失って反響した。
最後に、大きな音がして、すべてが止んだ。
その直後、全身に痛みが走った。
刃で撫でられるような感覚。
肩から腹、脚へ。
声は出なかった。
光が走り抜け、意識が途切れた。
翌朝、鏡に映った身体には、細い赤い線が無数にあった。
血は出ていない。
だが、皮膚の内側が、覚えているようだった。
会社に行くと、空気が違った。
泣いている同僚。
新聞を握る上司。
昨夜、線路で亡くなった女性。
名前を見た瞬間、母は立っていられなくなった。
それ以来、母は時折、理由のない痛みを訴えるようになった。
熱が出ることもあった。
仏壇の蝋燭は、夜になると勝手に消えた。
結婚し、私が生まれても、それは消えなかった。
母が話すたび、言葉の細部が少しずつ変わっていった。
痛みの位置が、増えていった。
ある夜、母は自分の腕をさすりながら言った。
「最近ね、線が、増えた気がする」
そのとき、仏壇の火が揺れた。
私は笑って受け流した。
けれど、右腕の同じ場所に、薄い赤い筋があることに気づいていた。
母の話を聞くたび、そこが疼く。
最近では、母が眠ったあとも、仏壇の前で蝋燭が揺れる。
誰も話していないのに。
私は、この話を書いている。
思い出すたび、線が増えている。
位置が、少しずつずれている。
今夜も、窓の外で音がした。
コン、という軽い音。
風だと思うことにしている。
でも、もう分かっている。
聞いた者から、次に進むのだ。
(了)
[出典:142 :日本昔名無し:2007/07/11(水) 16:26:17]