皆が新世紀の幕開けだなんだと、喧しく浮かれていた頃。
俺はというと、四畳半のボロアパートで、畳に寝転がって黄昏れていた。
天井にはひびが入っており、天井板が少し浮いている。窓の外では蝉が煩く、網戸越しにじっとりとした空気が部屋に流れ込んでいた。
旅行がしたかったんだ。どこでもいい、とにかくここから出たくて。
そのためのバイトを探していた。でも、電話をかけては断られ、断られては項垂れる毎日。
すり切れた求人雑誌を手当たり次第めくっていた。
節電のため電気は落とし、部屋は仄暗いままだった。夕日だけが頼りで、窓枠が作る十字の影が畳にじっと横たわっていた。
遠くで電車が走る音。どこかから味噌汁の匂いが漂ってくる。隣の部屋のだろう。
「カップ麺、あったよな……」
立ち上がる気力もなく、また仰向けになっていると、不意に雑誌のページが一枚、勝手にめくれた。
そこに載っていたのが――「弟切旅館(仮名)」の住み込みバイト募集だった。
場所は、ちょうど行ってみたいと思っていた山間の温泉地。時給は安いが食事付き、住み込み。
手作りのまかないが食える、それだけでもありがたい。
すぐに電話をかけた。声は若い女性で、なぜか電話の途中、妙なノイズが入った。
それでも話はとんとん拍子に進んで、明日から来てほしいとのことだった。名前を伝えると、低くて古びた男の声が応えた。
「垂水くんね……はやくいらっしゃい」
妙な違和感があったのは覚えている。でもそのときは、運がいいんだとしか思わなかった。
ただ、カップ麺を啜っていたら、妙な寒気がした。窓に映る自分の顔が、年老いて見えたんだ。
しかも、なんでだか、少しも嬉しくなかった。やりたいことのはずなのに、心が重かった。
次の日、朝から頭が割れるように痛み、吐き気が止まらなかった。
鏡を見ると、目の下に墨で描いたようなクマ。歯茎からは血が滲んでいた。
それでも準備はしていたし、先方も待っている。俺はふらふらのまま出発した。
道すがら電話が鳴る。昨日とは違う声、今度は優しく穏やかな女の声。
「体調が悪いのでは?無理せずに、こちらで温泉につかって休んでくださいね」
そんな言葉が返ってくるとは思わず、電話を切ったあと、かえって寒気がした。
体がどんどん重くなる。雨が降り出して、傘もなく駅まで濡れながら向かった。
咳き込み、血を吐き、手を見ると皮膚がカサカサでひび割れていた。
ホームのベンチで崩れ落ち、呼吸を整えようとするも、喉の奥に血が絡んで咳が止まらなかった。
電車がやってきたとき、まるで地獄の門が開くような音がした。
乗ろうとした瞬間、ひとりの老婆が俺に突進してきた。
「どけ!どかぬか!」
体当たりされ、ホームに転がされる。老婆は俺に馬乗りになり、顔をわし掴みにしながら叫ぶ。
「なぜじゃ!なぜ乗るんじゃ!」
「旅館に……行かないと……!」
「行くな……!行ってはならん!」
駅員に引き剥がされ、老婆は去り際に呟いた。
「おぬしは……引かれておる」
駅員とのやりとりも上の空。家へ戻ると、体調はみるみる良くなっていった。
血の気も戻り、喉の痛みも消えた。……どうなってるんだ。
とにかく断ろうと、旅館に電話をかける。
「この電話番号は現在使われておりません……」
もう一度。――同じ応答。
混乱しながら、録音していた通話を再生する。
「……ありがとうございます。弟切旅館です」
女の声だったはずが、再生される声は男。しかも、地の底から響くような、年老いた、まるで死人のような声。
「あ、すみません。求人広告を見た者ですが、まだ募集してますでしょうか?」
「……さむい……こごえそうだ……」
背筋に氷柱を突っ込まれたような感覚だった。
聞こえてきたのは、子供の声。助けを求めるような、凍えるような声。
通話の向こう、ずっと大勢の呻き声が流れていた。しかも……昨日、親切にしてくれたはずの朝の通話。
俺の声しか入っていない。向こうの声はまるで録音されていないのに、雑音混じりで、こう聞こえた。
「しねしねしねしねしね……」
なんだこれ……?
電源を引き抜き、震える手で求人雑誌をめくる。
あの旅館のページを探し当てると、紙質だけが明らかに違っていた。焦げて、黄ばみ、ページの端がちりちりと焼けている。
そこには「弟切旅館 全焼」の見出し。
死者三十数名。台所からの出火による火災。旅館の主人が焼けたまま発見され、宿泊客は全員焼死。
それは、数十年前の事故の記事だった。
求人ページではなかった。いや、もしかすると、最初から雑誌にそんな求人などなかったのかもしれない。
ぼう然と立ち尽くす俺の横で、またしても電話が鳴った。
湿気を含んだ部屋の空気が、まるで生き物のように蠢いていた。
鳴り続ける電話を前に、俺は、ただ立ち尽くすしかなかった――。
(了)
[出典:旅館の求人-2003/07/02 02:04]