中学生の頃の話だ。
あれが本当にあったことなのか、それとも夢の中の出来事だったのか、いまだに判別がつかない。だが、感触だけは今も皮膚に残っている。あの微かな電流の、骨の奥をなぞるような嫌な感覚が。
俺は当時、少し悪ぶった格好をしてはいたが、喧嘩一つまともにできない腰抜けだった。近所にいた本物の不良たちとつるむ勇気はない。だからこそ、いつも一緒にいたのは、やたら図体がでかいくせにお人好しでバカな達也と、犬の顔をした奇妙な同級生・久間(くま)だった。
久間は人間の体に犬の頭が乗っかったような姿をしていて、誰もその理由を聞こうとしなかった。「人間なのか動物なのか分からない」というのが、俺たちの間では当然の事実になっていた。口を開くと必ず語尾に「だニョ」とつけるのも、意味は分からないが、なぜか許されていた。
ある日、達也と金の話をしていた時のことだ。
「楽して儲けられる方法ねえかなあ」
俺が半分冗談で言ったそのとき、久間がじっとこっちを見て、鼻の穴をふくらませながら答えた。
「あるだニョ。ボタンを押すだけで百万円、すぐに手に入る方法」
そりゃ耳を疑った。だが久間は懐から、手のひらより少し大きい金属の箱を取り出し、カチリと蓋を開けた。中には赤い丸いボタンが一つ。それ以外には何もない。
「これを押すと、この引き出しから百万円が出てくるだニョ。ただし……」
久間の声が一段低くなった。
「押した瞬間、お前の意識は、宇宙の果ての、そのまた果ての……何もない空間に飛ばされる。そこで五億年間、死ねず、眠れず、ずっと意識を保ったまま過ごすんだニョ」
俺は笑った。五億年?馬鹿馬鹿しい。だが久間は続けた。
「五億年が過ぎると、お前は元の時間に戻ってくる。五億年分の記憶は全部消える。だから体感としては、押した瞬間に百万円が手に入ったようにしか感じない」
達也がゲラゲラ笑って「押す押す!」と叫び、迷いなくボタンを押した。
チャリーン、と硬貨の落ちるような軽い音。引き出しには本物の札束がぎっしり詰まっていた。
「ほら見ろ、簡単じゃねえか!」
達也は何度も押し、部屋中を紙幣で埋め尽くしていった。
俺は笑いながらも、心臓の奥で妙なざわつきを感じていた。
「本当は……今の達也は五億年を体験して戻ってきたんだニョ。記憶が消えてるだけで」
久間が呟いたその声は、空気を切り裂くように冷たかった。
気付けば俺も、ボタンの上に指を置いていた。
押した瞬間、頭の中に鋭い針を差し込まれたような衝撃が走り、視界が闇に塗りつぶされた。
何もない。
地面も空も、方向の感覚すらない。声を出しても反響はなく、ただ自分の内臓が動く音だけが響く。
時間の流れを測る術はなかったが、やがて飢えや眠気が存在しないことを悟った。死ねない。眠れない。終わりがない。
最初の百年は、ひたすら叫び、走り、壁を探した。だが壁はなかった。
二百年目には、独り言が止まらなくなった。しりとりを繰り返し、意味のない歌を作っては忘れ、また作った。
三百年を超えた頃、「自分は誰なのか」という問いが頭を支配しはじめた。地球とは何か。宇宙とは何か。なぜ存在するのか。この空間は何なのか。
もしかしたら俺が世界の創造主で、地球で暮らしていた俺は夢にすぎないのではないか……そんな妄想が膨らんだ。
やがて、自分なりの答えを求め、歯を引き抜き、歯茎から流れた血で地面に数式や文字を延々と書き続けた。果てのないキャンバスに、延々と。
三億年が過ぎたころ、ふと「分かった」と思った瞬間があった。何を理解したのかは今となっては分からない。ただ、その時から俺は静かになった。空間と溶け合うように、何も求めず、何も考えないまま二億年を過ごした。
そして五億年目。
視界が弾け、気付けば目の前には久間と達也と、引き出しに詰まった百万円。俺は大声で笑い、札束を抱えた。
もちろん、五億年の記憶は消えている。
嬉しさのあまり、俺は何度も何度もボタンを押した。
――その度に、同じ闇が、また口を開けて待っているとも知らずに。
[出典:336 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2007/08/07(火) 00:15:31]