年末の寒気が、オフィスの窓ガラスを震わせていた。
先輩が、あの調子で肩を叩いてきたのは、仕事納めの一週間ほど前のことだった。
「うちの町の年越し、見てみない? おもしろい行事があるんだ。今年は特に、見せてあげたいと思っててさ」
先輩はいつも世話焼きで、私が入社した年から何かと面倒を見てくれた。飲みにも、イベントにも連れていってくれたけれど、遠出の誘いは初めてだった。
年末年始に実家に押しかけるのは気が引けたが、「気にしないで来なよ」と笑われ、私は行くことにした。
話を聞くと、その行事は十二月二十九日から三十一日にかけて行われるらしい。今年は先輩の母が選ばれた、と言う。選ばれるとは何か、聞き返しても「それは見てからのお楽しみ」とはぐらかされた。
結局、私は初日の二十九日ではなく、三十日に出発することになった。
その決定が、私の命を分けることになるとは思いもしなかった。
三十日、朝九時。
先輩の運転する車で町へ向かった。三時間ほど走る道中、他愛もない会話が続く。途中、先輩がふと呟いた。
「昨日、雨降ったよね」
二十九日は確かに雨が降っていた。だから何だろう、と思う間もなく、先輩は眠そうに欠伸をしながら言った。
「昨日から実家に帰って、行事やって、そのまま戻ってきたんだ。もう眠くてさ」
違和感が、胸の奥に沈んだまま消えなかった。
昼頃、先輩の実家に着くと、目に飛び込んできたのは庭に不自然に広がる大きな水溜まりだった。鯉の池ほどの大きさで、濁った泥水が静まり返っている。
「行事に関係あるから、落ちないようにね」と軽く言われたが、胸の奥で嫌なざわめきが広がった。
家に入り、先輩の叔母に挨拶し、昼食をご馳走になった。二階の部屋に通され、窓から外を見ると、近所の庭に穴の空いた家がいくつもあった。水はなく、ただぽっかりと口を開けた黒い穴。
「選ばれるのを待ってる家よ」と先輩は言った。選ばれた家だけが水を張るのだ、と。
その説明を聞いても、行事の正体は見えてこなかった。ただ、祭りのような賑わいを想像していた気持ちは消え、不穏さだけが残った。
夜十一時、電話が鳴った。叔母が応対し、「そろそろ用意だから行っておいで」と先輩と父を送り出そうとした。だが私には「ここにいなさい」と言った。
先輩が不満そうに叔母に詰め寄る。二人の声は次第に鋭くなり、「私は認めてない」「あんたはしてもらったくせに」という言葉が聞こえた。
やがて時間に追われたのか、先輩は私に「これから何があるか、しっかり見ててよ!」とだけ言い、父と共に出ていった。
その瞬間、叔母は玄関の鍵を急いで閉め、私の手を掴んだ。
「一時になったら二階から外を見なさい。何があっても最後まで見るのよ。声をかけず、耳を塞がず、ただ聞く。……歌を」
一時。
恐怖で窓に近寄れずにいた私の耳に、低く湿った声が届いた。覗くと、庭の水溜まりを囲むようにずぶ濡れの人々が立っていた。子供も大人も、二十人以上。誰も瞬きせず、水面を凝視している。
やがて声が歌に変わった。濁った旋律が、耳の奥に直接入り込んでくる。
かえれぬこはどこか
かえれぬこはいけのなか
かえれぬこはだれか
かえれぬこは……(聞き取れない)
かえるのこはどこか
かえるのこはいけのそと
かえるのこはだれか
かえるのこは……(私の名前に聞こえた)
繰り返されるたび、体の芯が冷えていく。歌が終わると、先輩が顔を上げ、私を見て笑った。周囲の者も一斉に動き出し、闇に消えた。
叔母が駆け上がり、「よく耐えたね」と抱きしめたが、安堵する間もなく「三時にもう一度行われる」と告げられた。
「このままじゃ取り返しがつかない。すぐ出るわよ」
私と叔母は荷物を捨て、町を抜け、彼女の家へ逃げ込んだ。案内された部屋の壁も天井も、びっしりとお札で覆われていた。
叔母は語った。
あの行事は「かえるのうた」と呼ばれ、選ばれた死者を蘇らせるため、三日間にわたり生贄に歌を聞かせるものだという。六種類の歌が、各二回ずつ。最後の歌の後、生贄は水溜まりに沈められ、死者が代わりに這い上がる。
先輩の母は何年も前に死んでいた。それでも先輩は諦めず、今年選ばれたと知るや私を生贄に選んだ。
本来なら初日からいなければ成立しないはずだったが、初日に雨が降ったことで条件が満たされてしまった、と。
「昨日も今日も、水の底からあの人があなたを見ていた」と叔母は言った。
私はその言葉を飲み込むしかなかった。
翌朝、叔母に送られて帰宅した。
「これから一年、雨の日は絶対に外に出ないこと。その一年を過ぎれば大丈夫」と告げられた。
年明け、先輩はしばらく会社を休み、「母が亡くなった」とだけ伝えられた。私は会社を辞め、引きこもる一年を過ごした。
そして、もう二度と先輩とは会っていない。
今も庭に、あの水溜まりは残っているのだろうか。
考えるたび、耳の奥であの湿った歌声がよみがえる。
(了)